「なるほど。手入れ中に足を滑らし、『舞姫』を巻き込んで転倒した、と。」
シックな机に両肘をついて、初老の男性が確認する。
「はい。完全に私の不注意です。」
俺は、それを肯定する。
初老の男性はうつむいたままだ。何かを考えているのだろう。その「何か」については、予想もつくが。
「……私は、君が志望するから、と『舞姫』の手入れを許可したんだよ。それがまさか、このようなことになるとは、ね。」
「本当に、申し訳ありません。」
俺は、ただ淡々と答える。感情を揺らがせる必要はない。
その返答を最後に、沈黙が場を支配する。
長い沈黙は、男性の長い溜息で幕を閉じた。
「君の処分は、追って伝えることにします。今は舞踊大会も控えていますし、その後になるでしょう。しっかりと、楽しみなさい。
……最後の大会になる可能性も否定できませんし、ね。」
「わかりました。……失礼します。」
俺は一礼し、立ちあがった。
「『舞姫』のことは、残念でしたよ。」
背中にかけられたその言葉に含むものを感じながらも、俺は学長室を後にした。
生徒が立ち去り、また沈黙に包まれた学長室で、男性はまた溜息をついた。
今の生徒。……谷島明秀は、よく問題を起こす生徒だ。主に、他生徒との諍いを。
とは言うものの、今回の事件……『舞姫』の件では、少なくとも主犯ではない。老いたとはいえ、その程度の目は持っているつもりだ。
彼はガラス職人の息子で、ガラスものの扱いは群を抜いて手慣れている。たとえ『舞姫』がちょっと特殊……。
つまり、等身大の人型硝子像という巨大さを誇っていたとて、つまらない失態を犯すわけがない。
それ以前に、彼は『舞姫』を特別大切にしてくれていた。
人間に対してはあまり心を開かない彼だが、『舞姫』に対するときは、心の壁を取り払っていたように思える。
彼の数少ない笑顔を目撃したのも、『舞姫』の手入れ中だった。
この、「岡倉大学」創始者、岡倉幸博……自分の、祖父から受け継いだ、この学校とあの『舞姫』。
就任当時は埃に汚れ、しかし破損を恐れ何もできなかったあの『舞姫』を、彼が再びあの美しい姿に戻してくれた。
かつて祖父に手を引かれ見上げた、あのままの姿に。
そんな思いが、彼を見る目にレンズをかけているのかもしれないが……。
だが、老人の勘が告げている。彼ではない、と。
「……どうしたものかな。」
彼が主張する以上、何の処分も下さないわけにいかない。
心のざわめきは、いつまでも続いていた。
「……なんで、言わなかったんだよ。」
「……なんで、盗み聞きしてんだ。」
学長室を出るなり、一人の男が話しかけてきた。
秋山泰司。俺の数少ない友人だ。小柄な男で、どうにも食えない性格をしている。
最初は、ほかのやつらと同じくまともに相手をしていなかったが、なぜか今こうして友人のポジションで落ち着いている。
こんな変わり者と関わっておきながら、他にも異常に広いネットワークを維持し続けている、ある種尊敬すべき人間だ。
……もっとも、面と向かって言ってやる気はないが。
相変わらずの沈黙。多くを喋るのは好きじゃないし、意味もない。
泰司もそんな俺の性格を知っているし、今回に関しては事情もよく知っていた。だからこそ、先に折れた。
「はぁ。なんだってお前は、そんなに勝手なんだ?」
「勝手だ?」
そんな風に言われる覚えはない。
「当たり前だろ。なんで、『舞姫』の責任をお前が負ってるんだよ。あれは、俺たちが」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
「なっ、どうでもよく……聞けよ!こら明秀!」
俺は最後まで聞くこともせず、窓から外に出た。そのまま、寮を目指す。
本当にどうだっていい。誰に責任があるかなんて。
真実を学長に伝えたところで、どうせ、事実は変わりはしない。
『舞姫』はもう、砕けてしまったんだから。
部屋に戻ると、1枚のプリントが扉に挟まっていた。
雪中舞踊大会の参加希望。
学長の言葉が脳内をよぎる。
「最後の、大会ね。」
どのみち来年で最後になったわけだし、別に感慨深いものでもないが……。
家に帰れる距離ならそもそも寮なんか入らないし、かといって寮に引っこんでいるのも暇だ。
それに、舞踊はともかく、一緒に振舞われる豪華な食事は惜しい。
「まぁ、参加でいいか。」
俺は参加にチェックをつけ、学生ポストに投函した。
『舞姫』は、すぐに片づけられ、その存在が消えていることを不思議に思う生徒は居ても、疑問を引きずり続ける者は居なかった。
なぜなら、『舞姫』が居た場所には、代わりに一枚の貼り紙が存在していたからだ。
曰く、学長が所用で引き取った、と。
たったそれだけの貼り紙で、疑問は解消されていた。
『舞姫』は、それだけの存在でしかなかったのかもしれない。
「おーい、王子さむぁっと!!っぶねぇ!いきなり殴りかかってくるなって!」
「どうせ当たらねぇだろ。何の用だ。」
「おいおい、唯一の友人に向かってごあいさつだねぇ。」
どこから現れたのか、いつの間にか泰司が居た。
「驚いただろ。こんな貼り紙1枚でねぇ。」
「……あぁ。」
図星だ。騒ぎ立てられるのも面倒だが、たったこれだけでみんなが納得するのも複雑だった。
「って、思ったろ?」
無言で殴る。……一度くらい食らえばいいものを。
「学長も事なきで済ませる気みたいだし。王子様も一人で責任負うみたいだし。なんか俺がバカみてぇじゃん。」
「バカなんだろ。ところで、なんで俺が王子様なんだ。」
「ん?『舞姫』様の王子様じゃん。」
「はぁ。」
付き合ってられん。
「で。茶化しに来たのか。」
「その通ッ!冗談だっつの!」
完全に不意打ちで放ったはずの拳も、軽くかわされてしまう。
何者なんだ、こいつは。
「舞踊大会だよ舞踊大会。お前は参加すんのか?」
「なんだ、お前の情報網に引っ掛かってないのか。」
「んー、さすがに昨日の今日じゃね。で、どーなの?」
時間があれば手に入る、と暗に告げているのは放っておいて、解答だけを口にする。
「参加だ。」
「そっかそっか。じゃー楽しみにしてろよ。俺最後だから。」
最後。俺に向けられたものとは違う、その言葉の意味は
「吹奏か。」
「そ。俺ってばやっぱエリートだから?」
舞踊大会、というからにはダンスを踊る。
そして、ダンスに必要なものと言えば、音楽だ。
舞踊大会は、三日間、八時から十二時までの間行われる。その間の演奏を受け持っているのが、吹奏楽部だった。
吹奏楽部では、三日間、各二時間ずつで部員を入れ替えて対応を行う。
それだけの人数を抱えているからこそできる荒業だ。
そんな吹奏楽部にとって、大会のクライマックスを彩る最終日、特に後半に選ばれるのは最高の誉れなのだった。
「ドラムにティンパニにマリンバソロ!特にソロ見逃すなよ!」
泰司はそんな吹奏楽部の所属で、打楽器担当で、本人が言うように相当なエリートだった。それこそ、最後に選ばれるほどに。
「で、それだけを言いに来たのか。」
「まぁね。」
あっさりと返事をされる。
これ以上毒づく言葉もなくし、手持無沙汰にまた貼り紙を眺める。
その視線に気づいたのか、泰司もまた貼り紙に目をやった。
しばらくして、溜息をつく。
「……でもな、明秀。本当に、学長に言ってもいいんだぞ、お前は無罪なんだから。」
「だったら、自分で言いに行け。」
「う……さすがにその勇気はねぇんだよ……。」
さすがの泰司もうなだれる。泰司なりに、いろいろと悩んでいるようだった。
「他言からの発覚のほうが印象は悪いと思うがな。」
「そーなんだよなーぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
本気で頭を抱えてしまった。
「もういい!講義行ってくる!」
あいつはアレで経済学部を専攻している。その傍ら、本当に部活としての参加で音楽科連中と並んでいるわけだから恐れ入る。
天才とは、ああいうタイプを呼ぶんだろう。
泰司も居なくなったことだし、研究室へ向かうことにした。
研究室、といっても、一般のイメージとは少し違う。
どちらかというと、高校などにある「美術室」と表現したほうがいい。
教授は校内屈指の変わり者と呼ばれる繁村寿人。これといった専攻は持たず、美術とつけば何でもやる、といった人物だ。
変わっているのは教授だけではなく、単位も特殊だ。
参加日数等は一切選考理由にならず、ただ定期的に課題として作品を提出すればいいというシステムになっている。
俺が普段からぶらぶらしているのは、このあたりの理由が大きい。
研究室に入ると、すでに一人、先客が居た。教授、ではない。
髪が長く、線の細い女生徒で、今年新入した一年生だ。新入とはいえ、もうすぐ二年になるのだが。
名前は覚えてないが、まるでカラーイラストのような鉛筆画を描いていたことが印象に残っている。
今もまたキャンバスと向かい合っている女生徒から目を離すと、俺も自分のキャンバスの前に立った。
面倒くさい上に、特に見られて困るものを描いているわけじゃないので布はかけていない。そのままに自分の絵が目に入る。
当たり障りのない風景画。逆にいえば、そのことが当たり障りである、と教授に言われた絵だ。
本来ならガラス細工をやりたいところだが、それなら実家でもできるし、小規模なものならともかく普通は工房が必要になってくる。
そこで、感性を磨くための練習として、教授の下で様々な美術を学んでいた。今は、この絵。油絵だ。
正直、描きっぱなしで放置したのは失敗だった。いくら工夫しても、望む色が作れない。
くそ、せめてこの部分だけでも描き切っておくべきだった。
なんとか近い色を作り、キャンバスに筆を乗せる。……やはり、気に入らない。
しかし、そんな事を言っていては進むものも進まなくなってしまうので、諦めて筆を進めることにした。
せめて、この妥協が好転するように工夫するしかない。妥協から真の成功を導くのが真の職人なのだと、いつも親父も言っていたし。
その割には三流職人止まりだったが。そもそも真の職人が妥協してどうする。
描いていると時間が過ぎるのが早い。また描きかけで終わることのないように、とにかく集中してやってしまう。
……そういえば、あの女生徒もすでにいなくなっていた。いつの間に。
というか、教授を見なかったな今日は。あのクソ爺、何やってんだ本当に教授なのかいかんいかん集中集中。
……なんとか日没までに目標を達成することができた。
そんなこんなで、俺の日常は何事もなく過ぎていく。驚くほどに静かに。
やはり『舞姫』は、みんなにとってそんな存在に過ぎなかったというのだろうか。
そして。
舞踊大会の開催日がやってきた。
かつて雪に閉ざされていたこの季節。
木、金、土曜日の三夜連続で行われる、このダンスパーティ。
俺にとっては三度目になる、この学校特有の異質なイベント。
今年も何事もなく終わる予定だったこのイベントで、「事件」は起きた。
木曜日 二十時 舞踊大会開始
学長が壇上に上がると、喧騒がにわかに静まり返った。
学長はアリーナにひしめく生徒たちを一通り眺めると、軽く息を吸った。
「かつて、本校はこの季節、よく雪の中に閉ざされておりました。
かくいう私、本校の創始者である祖父とともに、その雪中を過ごしたこともありました。
そんな折、祖父が考案し、実行したのが、この雪中舞踊大会です。
今や本校が雪中に閉ざされるようなことはもう起きませんが、それでも私は、本校の大切な特徴として守っていきたいと思っております。
……さて、挨拶ばかりが長くなってしまいましたが」
そこで、表情が少し和らぐ。今までの、威厳に満ちた学長の顔から、イタズラ者の顔へと変わる。
「もう、体が疼いて仕方のない者も居るでしょう。立ち並ぶ食事に飛びつきたい者もいるでしょう。
年寄りの話はここまでです。みなさん、存分に楽しんでください。」
そこで、もう一度息を吸う。直後にはまた、威厳に満ちた学長の顔が戻っていた。
「学長、岡倉幸信の名に於いて。ただいまより、雪中舞踊大会の開催を宣言します。」
直後、大歓声がはじけるとともに、吹奏楽部による大々的なファンファーレが鳴り響いた。
まず最初に演奏されているのは、ごくありがちなクラッシックだった。CMから音楽の授業まで、幅広く慣れ親しんだ曲だ。
「で、お前はさっそく飯か。」
早速泰司がやってくる。人のことを言う割には、皿の上にいろいろ盛っている。
俺の横に並びながら、目の前の人の流れを眺めている。
「おー、まだはえぇのに、マジに踊ってるヤツらが」
言われて視線を上げると、確かに早速踊っている連中が目に入った。
基本始まってすぐは、談笑や食事に集中する人が多い中、その連中は目立っていた。
くるくると回るその集団は、ダンス関係の部活か同好会だろう。
その集団が着ている、色とりどりの豪華なドレス。それは、その集団だけがまとっているわけではなかった。
このイベントのために、学校が様々な業者との仲介をなしているため、ごく普通の生徒でもああいったドレスを持っているのだ。
……さすがに、タキシードを着ている男は少ない。
「いいよなー。こういうときって、女の子が一層可愛く見える。」
「そーいうもんか。」
「なっ、つーか、当然だろ。明らかに普段着じゃないんだぞ!」
「ふうん。」
確かに新鮮な感じはする。きっと泰司が言いたいのもそういったことなんだろう。
わかってねーなー、とまだ語ろうとしている泰司はとりあえず相手にしない。
曲も何曲目に移っただろうか。
もう開始からかなりの時間が経っている。吹奏楽部のメンバー入れ替えが発生してたから、最低でも二時間は経っているはずだ。
テーブルの上に並んでいるものもデザート系に姿を変え、踊る人間も徐々に増えてきた。
泰司もいつの間にかどこかに消えてしまったし、どうしたものか。
とりあえず、壁にもたれかかったまま、踊る群れを眺める。
色とりどりなドレス。色も構造も、何もかもが違う。みんながみんな個性を主張し、しかしその個性は、この特殊な空間で一つに溶け合っている。
何ともなく、ただ何ともなく、その溶け合う空間を眺める。
と、その空間から、乖離を果たしたものが一つ。俺の前に来て止まる。
「踊りませんか?」
と、声をかけてきたのは、一人の女だった。
白い、線の細いドレスを身にまとった女だった。あまり大きな飾りのない、単純なドレス。
「なんで、俺。もっといいやつだっているだろう。」
「そうかも、しれませんけど。」
くすっ、と、手の甲をそっと口元にあてて笑う。そのしぐさが、なんだか自然に感じる。
「それでも、あたしと、踊ってくれませんか?」
「踊りは苦手だぞ。」
「ふふっ、あたしもです。よろしくお願いします。」
なぜ。俺は彼女の誘いに乗ったのだろう。普段なら、適当にあしらって終わりだったはずなのに。
俺が右手を差し出し、彼女が自分の右手を重ねる。そのまま手を軽くあげて、一礼。
ここまでは、他のグループの見よう見まね。ここから先は、正直自信がない。
音楽に(なんとなく)あわせて、右へ左へ、足を出す。
「わ、わ、たたっ」
彼女は、そんな声を発しつつ、動きを合わせようとしている。
「あはっ、ダンスって、難しいんですね。」
「そうだな。」
彼女の笑顔からなんとなく逃げて、またステップに集中する。
他のグループのように、ややこしい動きをすることはできない。
ただ互いの手を取って左右に踏み出すだけの、そんな単調な動き。
それでも、なぜだろう。何か、心の中が温かくなるのを感じていた。
「あは、あはは。楽しいですね。」
あるいは、彼女のそんな屈託のない言葉が、そう思わせたのかもしれない。
「……そうだな。」
普段では、まず打つことのないような相槌。自然と、自然と。
そして、音楽は止み、第一日、閉幕の宣言がされた。
さっさと寮へと向かうもの、余韻に浸るもの、あわただしく片付けを行うもの。いろいろな人がいた。
「ふぅ。ありがとうございました。」
「いや。」
「あの、明秀さん。明日も、一緒に踊ってもらえませんか?」
「……いいのか、俺で。」
「はい。」
なんというか
「物好きだな、お前は。」
「えぇ、そんなことありませんよ。」
彼女は、何か驚いたような顔をしている。
「あ、もう戻らなきゃ……。ごめんなさい、もう戻りますね。」
時計をチラと確認し、突然、話題が変わった。
「明日、よろしくお願いします。絶対ですよ。」
彼女は最後にそう念を押すと、駆け去って行った。
そんな彼女をなんとなしに見送って
「あ。」
名前。俺はいつ、名乗ったんだろう。
不思議な女だった。
翌日。
ついいつもの癖で、いつもの場所に立っていた。
……『舞姫』が、あった場所に。
いつものように舞う姿は、当然のように、そこにはない。
「よ、王子様。……あれ、今日はパンチはなしか?」
いつもの、泰司の軽薄な声。今日は、その声に対し拳を放つのも面倒だった。
「やれやれ、無視か。俺としてはそっちのほうが堪えるんだけどね。」
言いながら、隣に立つ。
「講義は。」
「お、心配してくれんの?大丈夫、まだないよ。」
ひらひらと手を振りながら答えてくる。この男は、いつも、いつもどおりだ。
「お、そうだ。訊きたいことがあるんだよ。」
ところが唐突に、声のトーンを少し落とす。とたんに真面目そうな声になるから不思議だ。
そして事実、こいつがこういう声を出すのは、真剣な時だけだ。
「昨日……でいいのかな。正直、実行時の時間はわかってない。なんたって、被害者が全員、いつ負ったのかすらわからないとか言ってるしな。」
「……何の話だ。」
「ケガ人が出たのさ。本人たちも気付かない間に、な。」
「それが、どうした。」
「あぁ、妙なのはここからなのさ。秋山、神功、菱形。この名前で、気づくことってないか?」
「……。」
「ま、今考えた通りさ。『舞姫』の時の、な。全員が、体のどこかに、切り傷を負った。」
「不注意じゃ」
「ないと思うよ。お前だって、思ってないだろ。いくらなんでも、都合がよすぎる。そもそも、切り傷なんてこんな一斉が負うケガでもないだろ。」
「気をつけろよ。」
「あぁ、わかってる。」
「ところで、なぜ俺にそんな話を。」
「お前も、方向は違えど関係者だからな。あとそれと、ありえないのはわかってるけど、一応な。」
「言葉を濁す必要はない。要は、俺が疑われたんだろう。」
「ま、そういうこと。まー、お前がそんなことするやつじゃないのはよくわかってるんだけどね。情報は、一個ずつ潰すのが性分なもんで。」
軽く肩をすくめてみせる。俺も同じく肩をすくめた。
「本当に偶然って線もある。俺はもう少し探ってみるよ。じゃ、講義行ってくる。じゃな。」
「あぁ。」
のんびりと歩いてく泰司を見送ると、俺も研究室へ向かうことにした。
「やぁ、明秀君。絵は順調かな?」
「見てもらえばわかると思いますが。」
研究室には、珍しく教授が居た。本当に珍しい。
「ふむ、なるほど。かなり順調ではないようだ。」
本当にイラつく爺だ。しっかり確認しているじゃないか。
「で、教授は何をしてるんですか。」
「や、これはわたしの年中行事のようなものでね。」
からん、と筆を置くと、イーゼルをこっちに向くようずらす。
「何だと思う?」
「……昨日の」
「そう、舞踊大会の風景だ。どうだ、なかなかのものだろう。」
水彩で描かれたそれは、わざとぼやけるような、しかし対象をハッキリと理解できるような、そんな不思議な絵だった。
色とりどりの人物が楽しそうに舞う姿が模写されている。
「このぼかし方が今回の狙いでね。テーマをつけるとすれば、『一夜の夢』だ。」
夢。ハッキリするようなしないような、この不思議な感覚も、そう言われればしっくりくる。こういうところのセンスは本当にすごいと思う。
「さて。ところで明秀君。提出期限はそう遠くないよ。しっかり描き上げなさい。」
そう言って肩を軽くたたくと、教授は笑いながら研究室を去って行った。
俺はその姿を見送ると深くため息をつき、自分のキャンバスに向かった。
……自分では、完成間近のつもりだったんだが。
その夜、二十時。舞踊大会再開。
今度はファンファーレも学長の挨拶も入らずに、そのまま演奏が始まる。
相変わらずの、クラシックだった。
「よう。踊る前は飯。基本だな。」
相変わらず、皿に料理を山盛りにしながら泰司がやってくる。
何の基本なのかは知らないが、俺も料理をとった皿を持っている手前、何も言わなかった。
「そういえばお前、昨日えらい美人と踊ってたな。どこで引っかけたんだ、あんな美人。」
「さぁな。俺にもわからん。」
本当に、なんで俺なんかに興味を持ったのだろうか。俺の評判は、かなり良くないものとして学内に広まっていたと思うんだが。
「わからん、ねぇ。本当にそうだったら泣くぞ、俺。」
「なんでお前が泣くんだ。」
「うっせぇバーカ!おまえなんかもう友達じゃねぇよ!」
……なぜ、泣きながら走り去っていく。
コメントに困ったまま見送り、結局何も言わずにまた皿に目を落す。
あいつが変なのはいつものことだ。うん、いつものことだ。
だから、気にしないことにした。
今日も相変わらず、刻々と変化を続ける踊る集団を眺める。
と、唐突に、その視線が遮られた。
「こんばんは。明秀さん。」
「あ、あぁ、君は……。」
「あ、ごめんなさい。あたし、名乗ってなかったですよね。そういえば。」
目の前には、昨日の女が立っていた。
相変わらずの笑顔。
「ショウコ、って呼んでください。よろしくお願いしますね。」
「あぁ、よろしく。」
何と答えればいいものか。さっきから相槌しか打てていない。
ショウコは、そんな俺を気にするでもなく俺の横に並んで立った。
「それ、何食べてるんですか?」
「ん、これか。」
皿を覗き込みながらされた質問。
別に珍しい物ではない。ぱっと見れば、誰でもわかるようなものだ。
それは、香ばしい狐色に揚げられた、筒状の食べ物。
「春巻。」
「はるまき。」
まさか、知らないのだろうか。
不思議そうに眺めるショウコ。しげしげと春巻を見つめる彼女を見てると、知っている俺のほうが異常なんじゃないかと思えてしまう。
「食ってみるか。」
「え、あ、ええと……。それじゃ、一口だけ。」
と、つぶやいたはいいものの、一向に動きを見せない。
「ええと……。」
春巻とフォークを何度も見比べている。
と、思うとフォークを手に取り、少し迷ったあと春巻に突き刺……そうとして、フォークは春巻の表面を滑った。
「わっ、わっ」
その後も何度か挑戦していたが、結局春巻をとらえることはできなかった。
仕方なく、ショウコの手からフォークをひったくると、そのまま春巻を突き刺し、ショウコにフォークを差し出す。
「あ、ありがとうございます。」
ショウコは微笑むと、俺の手からフォークを
受け取らずに、そのまま春巻をかじった。
「うおっ」
「きゃっ」
さすがに驚いて思わず声を上げると、それに驚いたのかショウコも小さく悲鳴を上げた。
「え、え、どうしたんですか?」
「いや……。どうだ、味は。」
「あ、えっと。」
……。
…………。
「驚いて、飲み込んじゃいました。」
いつもの、屈託のない笑顔でそう言うと、また口をあけた。
「……。」
「…………。」
フォークを差し出してみる。
また、そのままかじる。
「ん……、おいしいです。」
「そうか。」
「……あっ。そうだった。踊りましょう、明秀さん。」
「ちょっと、待っ」
ショウコのペースについていけない。
とりあえず、フォークに刺さったままだった春巻を、急いで口に放り込んだ。
昨日と同じく、単調に動くだけの、拙いダンス。
一応、昨日も長い間踊っていたおかげか、二人とも少しは上達したようにみえた。
「なぁ、ショウコ……さん。なんで、俺なんかに声をかけたんだ。」
「えっ……。なんでって。明秀さん、すごく優しい人だもの。前から、お喋りしてみたいなって思ってました。」
「やさしい……、か。俺がどんな人物だと、噂が立っているのか知らないのか。」
「噂なんて、知りません。あたしが知っているのは、優しい明秀さんだけです。」
「やっぱり、かわってるな。」
少しだけ強引に、ターンをする。もちろん、彼女の身体を引っ張ったまま。
正直、少し照れていた。こんな風に言われたのは初めてだ。
「きゃっ!っとと、びっくりしたぁ。」
あわてて、ショウコは俺の動きについてくる。
「かわってるなんてことありません。あなたのことを知っている人が少ないだけです。
あ……『舞姫』の像が壊れてしまったときだって、一番心配してくれたのは、あなただった。」
「俺が手入れをしていたからな。思い入れがあっただけだ。」
「それが、優しいって言うんですよ。」
なのに、と、言葉が少し続いた気がした。
「どうかしたか。」
「ううん、なんでもないですよ。……あ、そろそろおしまいの時間ですね。」
また、昨日のように時計をちらと確認すると、唐突に踊るのをやめてしまった。
「ごめんなさい、あたし、そろそろ戻りますね。……明日で、いよいよおしまいですね。」
「そうか。……そうだな。」
なぜか、クスっと、笑われてしまった。
「明秀さん。明日も、踊ってくれますか?」
「あぁ。」
「よかった。ありがとうございます。」
そう言って去っていくショウコの背中は、なぜだか、少しさみしそうに見えた。
「また、明日な。」
思わずそう声をかけてしまった。
ショウコは振り返り、大きく手を振り返してきた。
翌日。休日だけあって、校舎のほうに人影は少ない。
クラブ活動や補修、自習に精を出す人間を、時々見掛ける程度だ。
そんな中俺は、相変わらず、いつもの場所に来ていた。
……いい加減、吹っ切れているはずなんだが。
「おう、王子様。」
いつものやつが来た。
「なんだ、せっかくの休日なのに遊びに行かないのか。」
「んー、一応今日演奏だしね。」
最終調整、というやつなんだろう。
「しっかし、聞いたぞー。うらやましい奴め。」
「何が。」
「良く言うよ。あれだけ見せつけてくれちゃってさ、まったく。」
本気で溜息をつかれた。
「だから、何のことだ。」
「女だよ、お・ん・な。あれだけ公衆の面前でイチャついといて、よくシラを切るねお前ってやつは。
何?手ずから春巻を食べさせてあげたり、手をつないだまま踊りに行ったり。
まさかお前がそんなバカップルになっちまうなんてなぁ。」
「あれは……」
……確かに、周辺から見ればそうとしか見えなかったかもしれない。
というか、自分でも思い出してて恥ずかしくなってきた。
「……忘れてくれ。」
「なんだそれは。さて、幸せ絶頂のとこわりぃんだけど、ちっと面倒なことになってね。手伝っちゃもらえないか?」
「手伝う……」
「あぁ。……っと、ここじゃ人目が多いな。悪い、こっち来てくれ。」
そう言って泰司に誘導された場所は、やや小規模な講堂だった。
「今日は休講だし、鍵を閉めれば人は入れない。で、問題の鍵は俺の手の中。つまり、完全に外界から遮断された空間ってわけだ。」
「で、何を手伝えばいい。」
「なぁに、簡単なことさ。」
言うと、泰司は突然に服を脱ぎだした。
「ぐっ……、これだ。」
言って突き出してきた右腕。そこには、乱雑に巻かれた包帯があった。
「これは」
「その通りだ。俺も、やられた。」
よりにもよって利き腕をな、と呟く。
ほどかれた包帯の下には、縦に長く引かれた赤い筋……要するに、切り傷があった。
「大丈夫だ、そこまで深くはない。で、頼みたいことってのは、こいつを巻いてほしいのさ。自分じゃうまく巻けなくてな。」
言って差し出されたものは、包帯。
「おっと、保健室に行けとか言うなよ。んなとこに行ってケガでもバレたら、即メンバーから外されちまう。だからお前に頼んでんだ。」
「メンバーって、お前、こんな腕で」
「できるさ。さぁ、早く巻いてくれ。練習に復帰しないとな。」
「……あぁ。」
「ぐっ……、あぁ、続けてくれ。大丈夫だ。これで、俺を含めて、山本、小城。あの事件に関わった人間は全員だな。」
「やっぱり、あの関係者なのか。」
「そうとしか思えないな、さすがに。……ところで、ちょっと面白い話を聞いてな。」
「面白い……話」
「おう。実は今回の大会な、一人多いんだよ。」
「一人、多い。」
「そう。ほれ、大会の前には、毎回参加不参加集計取ってるだろ?その集計の結果が、何回やっても一人多い計算になっちまうらしいんだ。」
「外部の人間が侵入でもしたのか。」
「そういうことになるよな。でも、おかしいだろ。きっちりしか配布してないはずなのに。まぁ、コピーなんざいくらでもできるけどなあんなザラ紙。」
「だとして、いったいなぜこんなことを」
「まぁ、あの事件絡みなのは間違いなさそうだけどなぁ。俺としては動機より犯人だよ、気になるのは。
お前と学長以外に、『舞姫』に入れ込んでたヤツって居たか?そうそう、犯人っていえば、もうひとつ情報がある。
聞き込みしててわかったんだが、被害者は全員があるものを見てるんだ。」
「あるもの。なんだそれは。」
「見たこともない、綺麗な女性を、な。」
「まさか」
「さぁ、な。うちはアホみたいにでかい学校だ。見たことのない女が居たっておかしくはない。
俺でも半分くらいしか把握できてないしな。結局、あまり意味のない情報だよなぁ。」
「見慣れない、女性。『舞姫』の関係者。」
彼女は、突然自分の前に現れた。彼女は、自分のことをよく知っていた。
もしかしたら、俺が一人で罪をかぶる気でいることも知っているのかもしれない。
なんとなくだが、確信に近いような不思議な感覚を覚えた。
「いでっ!いででででで!ちょっ、おい!締めすぎだ!!」
「あ、あぁ……、すまん。」
「ったく。……よし、これでなんとか。ソロ、聞き逃すなよ。」
「あぁ、わかった。」
包帯を巻いたばかりの腕をブンブンと振り回すと、泰司は上着を羽織る。
「いいか、絶対に内緒だからな。そんじゃ、俺は練習に戻るよ。」
部屋を出る瞬間、泰司が顔をしかめたのが見えた。
そして。
そして、夜。舞踊大会の最終日が、始まる。
「おう、明秀。っつつ」
「泰司。」
左手を挙げながら、泰司がやってくる。
「準備はいいのか。」
「俺の出番は二時間後だぞ。暇で死んじまうよ。」
片腕で肩をすくめるような動きをする。
「……やっぱり、腕は」
「しっ!……確かに、調子は良くない。何度も音がズレやがったしな。」
忌々しそうに右腕を見る。見るからに力が入っていないかのように腕が垂れていた。
「明秀、なんか食わせてくれよ。」
「気持ち悪いだろうが。」
「えー、あの子の時みたいに食わせてくれないのかよ。」
「あれは忘れろと言っただろう。第一、自分で食えばいいだろ。」
「んー、皿は持てても箸がねぇ。」
そうか、右腕はもう動かすのもつらい状況なのか。
……そういえば
「泰司、一つ気になったんだが。お前は今までに、俺の拳を食らったことがあったか。」
「んや?一発も食らった覚えはないよ。というか、お前に限らず食らったことはない。」
本当に何者だ、こいつは。
「……犯人は、そんなお前に、どうやって傷を負わせたんだ。」
そう、こいつは、どれだけ本気で殴っても、どれだけ隙をついても、今まで一度として、俺の拳を受けたことはなかった。
そんな泰司が、簡単に傷を許すはずがない。
「それが、気づいた時にはもうあったんだよな。こう、綺麗な女の人を見かけてさ。
誰かなー、とか思ってたら急に痛みを感じるんだ。で、気がついたら、こうなってた。」
「……カマイタチ。」
「また古風な。そういえばあったなーそんな現象。でも、イメージはそんな感じだと思うぞ。向こうは痛みを感じなかったらしいけど。」
ケタケタと笑いながら、右腕を持ち上げてみせる。
「ってて、やっぱ痛いな。さっきよかマシにはなったけど。」
そっと腕を下ろすその姿が、妙に痛々しかった。
「あ、しまった。」
「どうした。」
「楽器さ。この腕だし、運ぶのに時間がかかっちまう。」
「だったら、手伝いに」
「かーまわねって。ほとんどはこれまでの演奏で出てるし。一人で運べる。」
「そうか。」
「そ。だから、お前は」
チラ、と自分の後ろを確認する。
「お姫様と楽しんでろって。」
さっさと行ってしまう。
何だろう、と思っていると、すぐにショウコがやってきた。
「あの人……。」
「ん。俺の友達だ。」
あいつ、ショウコに気づいたから、急に消えたのか。
「友達……。あたし、悪いことしちゃったかな。」
妙に悲しそうな表情をしていたことが、気にかかった。
「気にしないでいい。あいつは、この後演奏があるからな。その準備だ。」
「そういうことじゃ……、そうですか。だったら、いいんですけど……。」
なんだか釈然としない返事。だが、少しだけショウコの顔が明るくなったので、安心した。
「今日は、踊らないのか。もう今日しかないぞ。」
「……そうですね。踊りましょうか。」
明るく。その明るさに感じた違和感は、今は忘れよう。
今はただ、彼女にいつもの笑顔を戻してほしい。それだけを思う。
本当に、上達したと思う。
最初は、ただ、左右に動くだけしかできなかった。
それが今では、音楽にあわせて動くことができ、ちょっとした動きなら足すことができる。
上手い、とはお世辞にも言えない。
少しでもかじった人間から見れば、まだまだ素人のお遊びでしかないだろう。
それでも今は、この上達が素晴らしいものに思える。
何より。
目の前のショウコが、笑顔でいてくれる。
それだけで、心の底から楽しくなる。
今までの自分からは、考えられないほどに。
彼女の笑顔には、何か魔力でも宿っているんじゃないだろうか。
そう思ってしまうほどに、不思議だった。
でも。
この楽しい時間を、自分はつぶさなければならない。
確かめなければならないから。
どちらに転んでも、確実に、彼女は目の前から去ってしまうだろう。
そんな、好転のない確認を、しなければならない。
「ショウコ。」
「? どうかしましたか?」
「いや……。」
どうにも、切りだす気になれない。
この笑顔を壊してしまう。そう思うと、勇気が出てこない。
「……? 変なの。」
ずるい、と思う。
ここまで屈託なく笑っている彼女に、やましいことなどあるわけがない。
思考が、そんな思いで埋め尽くされていく。
思い悩んだまま、切りだせないまま、時間は過ぎてく。
ただ、無為に過ぎていく。
「きゃっ!何、何?」
ショウコが小さく悲鳴を上げる。
無理もない。突然、アリーナ中の照明が落ちたのだ。
これまでに二度体験した俺でさえ、悶々と考え込んでいたせいで一瞬面喰ってしまったほどだ。
周囲でも悲鳴が上がっている。きっと、もうすぐ二年となる一年生たちだ。
ざわめきが最高潮に達した、そう思った瞬間に。
甲高く、耳障りで、大きく、荘厳に。何もかもすべてを塗りつぶすかのように。
シンバルの音が高々と鳴り響いた。
それを合図に、各地で小さく明かりが灯り始める。
事態を飲み込めぬ者たちはまだ騒然としている。ショウコも、そんな一人だった。
「ショウコ。安心しろ。これは、最終日の演出だ。」
「演……出……?」
最後の二時間は、すべての照明が、蝋燭やランタンに切り替わる。
そんな中でも、演奏は何事もなかったかのように進行してゆく。
泰司も、あの腕を引きずったまま、必死で演奏しているのだろう。
「なんだ、驚いちゃった。……そうだと思えば、何か、幻想的で綺麗ですよね。」
「あぁ。」
ショウコの言うとおりだった。
全体が薄暗くなり、照明の質が変わったために見るものすべてが違って見える。
楽器が様々な炎を照り返し、幻想的に輝いている。
なんとなく、教授の絵を思い出す。
俺たちは踊るのをやめ、その光景に見入っていた。
正確には、その光景を見つめる、ショウコの横顔に。
彼女の横顔もまた、揺れる炎に照らされて、幻想的に見えた。
まるで、作り物のような、完璧な美。
「ショウコ。きみは……。」
儚いこの光景を見て。しかし、すべてを破壊するこの質問をする。
今しかない。そんな思いに駆られて。
「きみは、切り裂き事件を知っているか。」
「切り裂き事件……。」
ショウコの顔がこわばる。
……あぁ、妙な確信が、脳内に宿った。
笑ってくれればよかったのだ。
何のことですか、と。笑顔の中に不安な色を混ぜて、問うてくれればよかったのだ。
彼女のそんな顔は見たことがなかった。
しかし、その顔が、真に安心できる顔なんだと、なぜか思えた。
「『舞姫』事件。それに関わった生徒が、全員、体のどこかに切り傷を負った。」
「何の、ことですか。」
待ち望んだ言葉だが、すでに遅い。
穴だらけだ。推理でも何でもない。
だが、ショウコは、シラをきるのが下手だ。
素直な、本当に素直な、純粋な子だ。
「……そうか。なぜ、そんなことをしたんだ。」
「なんで、わかったんですか。」
ショウコも、もうこれ以上逃げようとはしなかった。
「ほとんど感覚でしかない。泰司……さっき居た、俺の友人が、いろいろと調べて、教えてくれた。」
「彼は、どれだけ知っていたんですか?」
「ほとんど、何もだ。あいつは、きみを疑うという結論までは行っていない。情報が、あまりにも曖昧だったから。」
「だったらなぜ、明秀さんは気付いたんですか?あたしを信じようとは思わなかったんですか?」
その言葉が心に刺さる。
会って数日しか関わってない人間だ。信じるわけがない。
……数日前までの俺なら、相手がショウコでなければ、間違いなくそう言っていた。
「被害者が全員、『舞姫』事件の関係者だった。それはきっと、『舞姫』のことを想っていた人物の犯行でしかないと思ったんだ。」
「他にも居るでしょう、そんな人。」
「いや。」
俺も、そう思いたかった。
だが、そうではない。
あの日見た貼り紙。誰も、何も気にしなかった。
「俺が知る限りは、俺と学長だけ。そして、それが『舞姫』を想う人間のすべてだ。」
皮肉にも、その事実が、事件とショウコをつなげることとなった。
「そう、それともう一人。昨日の会話で、君もまた、『舞姫』を想ってくれていたんだと気づいた。」
そのことはうれしかった。自分が作ったわけじゃない。自分のものだったわけでもない。
それなのに、あの『舞姫』が誰かに想われていた。それを知ったとき、無性にうれしくなった。でも。
「なぜ、あの時の関係者を襲うような真似をしたんだ。告発でも何でもすれば、よかったはずだ。
そもそも、なぜ、復讐……そうだ、復讐だ。そんな真似をしたんだ。」
高々と、マリンバの旋律が流れる。一瞬だけ、音がズレたのがわかった。
沈黙が流れる。
その間も、マリンバによる独奏は続く。
あれ以来、一度も音をはずすことはない。
ショウコはうつむいたままだ。
「だって。」
ショウコはつぶやく。
「だって、明秀さんが。明秀さんが……。」
「俺……。」
「そうです。明秀さんですっ。」
ショウコは、泣いていた。
笑顔に比べて、あまりにも似合わない。
笑ってほしい。口が裂けても、その望みは口にはできない。
俺にはその資格がない。彼女の笑顔を奪った人間なのだから。
「なぜ、明秀さんが、処分されなければならないんですか?なぜ、明秀さんが、事件の犯人になっているんですか?」
泰司にも言われた疑問。それが、またここで出てきた。
「あなたは優しい人。そのあなたにかばわれて、犯人は……、あいつらは!のうのうと、笑っている。あなたが、処分されているのに。」
消え入りそうな、か細い声。必死に、声を絞り出しているのだ。
「あたしはそれが許せなかった。なぜ?なぜ、あなたが?処分されるべきはあいつらなのに。あなたは何もしてない。なのに。」
「だから、あんなことを。」
「そうです。誰もあいつらを裁かないなら、あたしが。あたしにはその権利がある。あたしは、あいつらに壊されたのだから。」
ころされた。そう、聞こえた。
「復讐、そうかもしれません。あたしを壊し、あなたを陥れている。そんなあいつらに、復讐をしたかった。だから、だから、あたしは……。」
「ちょっと、ちょっと待て。ショウコ、きみは……。」
さっきから、おかしい。裁く、復讐。恐ろしい単語が何度も聞こえているはずなのに、たった一点が、気になって仕方がない。
「ころされた……。どういう、ことだ。」
「あっ……。」
ビクっ、と、ショウコの身体が震える。正気に戻ったんだろう。
「……ごめんなさい。あたしは、あなたの横に居るべきじゃない。恐ろしい。本当に、恐ろしかった。
こんな感情が湧き出した自分が。そんな感情に突き動かされた自分が。あたしは、あたしは……。
彼らを、傷つけてしまった。深く、深く……。あたしはやっぱり、ただ立っているだけじゃないと、だめだった。」
「ショウコ、きみは一体。」
なんだか、何かが符合しそうだ。
ありえない、ありえるはずがない、符合。
「あたしは……。あなたが大切にしてくれたモノ。あなたを大切に想っていたモノ。彼らによって壊されたモノ。……『舞姫』、です。」
「『舞姫』……。」
「ただのモノに過ぎないあたしが、なぜこんなところに居るのか。
壊されたはずなのに、なぜ、こうして歩き、喋れているのか。何もかもわかりません。」
まさか。そんなはずがない。はずがないのに。
言われた瞬間、納得してしまった。
顔が。体が。全てが、あの時のままなのだ。
「しかし、意思だけはありました。恐ろしい、復讐の意思。そして……。明秀さん、あなたと、お喋りしてみたい。そんな意思が。」
いつだったか、彼女は言った。
一度、お喋りしてみたかったと。
「あたしは、どうせ消えるのでしょう。もともと人間ではないですし、ここに残る資格もありません。本当に、ごめんなさい。」
ショウコは、何を謝ったのか。
事件のことか。それとも。
「明秀さん。あたし、楽しかったです。明秀さんと一緒に踊って、お喋りして。
はるまきも、おいしかったです。……でも、いっぱい、迷惑をかけてしまいました。
あの人たちにも。謝って、許してもらえるわけがないけれど。……本当に、ごめんなさい。」
それだけ言うと、ショウコはアリーナの出口に向けて歩いて行く。
「ついて来ないでください!……ごめんなさい。お願いですから。」
ショウコは振り返りもせず、アリーナから出て行った。
そして、それと同時に、閉幕のファンファーレが鳴り響いた。
翌日。俺は、相変わらずあの場所にいた。
泰司も横にいる。
「どうだ、俺の雄姿。しっかり聞いたか?」
まだ腕は相当痛むだろうに、こいつはぴんぴんしている。
「音、はずしてたな。」
「げ。耳ざといやつめ。」
まったく元通りになってしまった日常。
一番の問題についても
「谷島くん、君はガラス職人を目指していたんだったね。
だったらいつか、『舞姫』に負けないような像を寄贈してください。
それで、この件はなかったことにしましょう。」
と言われてしまった。
今回の騒動は、ごく一部が知っているだけで、何もなかったかのように消えた。
本当に何もない、うんざりするくらいの、日常だ。
「俺さ、正直な話、報いなら受けてもかまわないって思ってた。」
「なんの話だ。
いきなり、泰司が言う。
「『舞姫』さ。停学、弁償、賠償金、最悪退学だって覚悟はしてた。学長や……お前に殴られても、かまわなかった。」
「……。」
「ありゃぁ、俺たちが全面的に悪いからな。むしろ受けて当然だったんだ。そう思ってたら、アレだろ。」
アレ、というのは学長室でのやり取りのことだろう。こいつは、ごく普通に盗み聞きしていた。
「処罰の覚悟はしてたくせに、言いだす勇気は出なかった。そうしてるうちに、お前の処罰が決まったんだ。」
「言い出すだけ、無駄だからな。逆恨みされて終わりだろう。」
「はは、だろうな。そういうやつも確かに居たしなぁ。」
でも、と泰司はつづけた。
「お前はもっと、人間を信じてもいいんじゃないのか?確かに、逆恨みするようなやつだって居たけど……。
俺は、もしそうなってもそいつを止めることができる。
あいつだって、ちょっとは恨むかもしれないけれど、そこで思いなおせるかもしれない。結局、独り善がりな逃げなんだよ。」
「……逃げか。そうかもな。関わって面倒なことになるくらいなら。そう思っていたことは否定しない。」
「やっぱりな。お前はさ、もう少し人と関わればいい。お前は、お前が思っているほど、嫌われてはいないんだから。」
それは、本当なのだろうか。
泰司はいい加減だが、いい加減に人を陥れたりはしない。だからきっと真実なのだろう。
が。それを認めるのは癪だったので。
「そもそも、罪から逃げたやつに、偉そうに言われたくはないな。」
カウンターを、放っておいた。
「お前を切りつけたのは『舞姫』で、その傷は『舞姫』の嘆きだと言えば信じるか。」
「なんだおまえ。いつの間にそんなロマンチストに。」
茶化す泰司だが、俺は静かにその先を待った。
これだけで、泰司には冗談でないことが伝わる。
「……そうなのかもな。俺たちは、『舞姫』にはひどいことをしたから。」
泰司は右腕をそっとなでた。
「ひょっとして、大会中お前と一緒にいたあの女が『舞姫』だったのか?」
「……信じるか。」
「んー、俺は、信じるかな。お前は、嘘なんかつかない。」
「そうか。」
本当に不思議な体験だった。
教授ではないが、まるで夢でも見ていたかのようだ。
「だったら、謝りたかったな。そうすれば、学長に謝りに行く勇気も出たかもしれん。」
「今から行くか。」
「う、それは勘弁。」
本当に、基準のわからないやつだ。
それにしても。
「『舞姫』にしては、踊りの下手なやつだったな。」
「お、なんだなんだ。」
「どうした。」
「お前が笑うところ、初めてみたぞ。」
「……そうか。」
うんざりする日常だが。
何かが、確かに変わっていく。
END