とても綺麗な景色。
あの子にも、見せてあげたい。
……あの子、なんて言ったら怒るだろうか。
もう、立派な青年になっているはずだろうから。
だけど、私には、元気な少年の姿でしか思い出すことはできない。
私の中で、鼓動を感じる。
うん、わかってる。ありがとう。
私の中には、もう一つのいのちがある。
力強く、それでいて優しく、私を叩く。
まるで、あの子のようだった。
真っ白い病室。
目に入るものは、何から何までが白く、他の色を感じられない。
唯一黒いのは、私の長い髪。
見慣れた光景。目新しいものは何も無かった。
真っ白い服。真っ白い、わたしの肌。世界を蝕むような、髪の黒。
何日、見続けてきたのかもわからない。
数えることすら、いやになった。
毎日が静かで。
決まった時間に沿って、決まったことが起きる。
様子を見に来た看護師の人に、無気力な返事を返す。
様子を見に来た両親に、無気力な返事を返す。
そして、眠る。
ただ、それだけ。
そんな毎日が、ある日突然、壊れた。
「あれ、ここ、どこだ?」
いつもの退屈な日々にまどろんでいると、突然、そんな声が聞こえてきた。
長く忘れていた、他の声。
わたしの感覚がおかしくなっていなければ、多分、小さな男の子の声。
からから、と小さな音をたてて扉が開く。
「きみは・・・?」
突然現れた、新しいいろ。
最初は驚いたけれど、そういえばここは、個室ではあるけれど、関係者以外立ち入り禁止というわけでもなかった。
現れたのは、少年だった。声から想像したとおりの、元気な男の子。
カラフルな服に身を包んでいる。多分、誰かのお見舞いにきたのだろう。
「あ、えっと、ごめん。病室、わかんなくなっちゃってさ。」
ベッドの上にいるわたしに気づいて、少年は謝る。
「いいよ。きみは、何号室に行きたいの?」
多少驚いたとはいえ、謝られるほどのことではない。
わたしは、ぎこちなく笑い顔を作りながら、男の子に尋ねた。
上手く、作れただろうか。
「あ、うん。えっと・・・、607?だったかな。同じ道を通ったはずなんだけどな」
なるほど、と思った。
この病院は、基本的に病棟の構造が同じだ。だから、形だけで覚えたのでは、階が変わるとわからなくなる。
「一つ下の階だよ。ここは、707号室。」
「あっ、そっか!ありがとう、綺麗なおねーちゃん!」
丁寧に頭を下げると、騒々しく駆けて行った。途中で、思い出したように引き返して、扉を閉めていく。
その様子にクスりと笑う。
久しぶりに触れた、他人。そして、新しいいろ。
久しぶりに、自分の声を聞いた気がする。
そして、久しぶりにこぼれた、自然な笑い。
全部、あの男の子が届けてくれた。
だけど、あの男の子は、自分が本来行くべき病室を知った。
多分、もう間違えない。
もう、会うことも無い。
その、何でもないようなことに、胸がチクりと痛んだ。
チク・・・り、と・・・っ!?
突然、わたしの胸を、どうしようもない激痛が襲う。
ナース、コールを・・・。
激痛に、意識を持っていかれそうになる。
必死で、ナースコール用のスイッチを探す。
自分の手が、どこを動いているのかもわからない。
それでも、なんとか、見つ・・・ッチを・・・押・・・。
そして、その病室は、突然騒々しくなった。
翌日。
落ち着いてから、という話だったから、日が変わってから部屋に医者がやってきた。
話を聞く限り、極度の緊張が原因ということだった。
多分、いや、絶対あの時だ。
「どうしたのかな?久しぶりに、心躍るようなことでもあったかな?・・・だけど、いいことだ。体をいたわりながら、楽しむといい。」
と、先生はわたしにこっそりと耳打ちして病室を出て行った。
……ウィンクまで残して。
楽しめ、といわれても。
あの子は、きっと、お見舞いに来ただけの子で。
きっと、もう部屋を間違う事も無くて。
だから、きっと、もう会うこともなくて。
……だから、きっと。
……なんで、わたしはこんなにあの子のことが気になるんだろう。
いや、理由はわかっている。
あの子が運んできてくれた、たくさんのもの。
たくさんのいろ。たくさんのこえ。
もう一度、会いたいんだ。あの子に。
コンコン。
突然、扉から小さな音がする。
トクンと、心臓が高鳴る。昨日のような痛みは、こない。
遠慮がちな、小さな音。両親や、医者たちとは違う。
「・・・・・・どうぞ。」
やっと、それだけ言えた。
からから、と小さな音をたてて扉が開く。
そこに、期待どおりの顔があった。
小さな丸顔に、ちょっとだけ釣り目気味の目、低く通った鼻と、大きな口。
短く切られた髪はほんのり茶色で、小さな耳を少しだけ隠している。
昨日と同じカラフルな服を着たその少年は、わたしの顔を見て、ニッ、と笑った。
「また、部屋がわからなくなったの?」
ちょっと、意地悪く言ってみる。
「んーん、今日は、おねーさんに会いに来た。」
まっすぐに、そう言った。
「え、」
言葉に詰まる。そんなに、ストレートに言われるとは思ってなかった。
「あ、ごめん、もしかして迷惑だった?」
「ううん、そんなことない」
済まなそうに言う彼を、思わず、呼び止める。
「わたしも、暇だったんだ。大丈夫だよ。」
「そっか。よかった。」
ニッっと笑うと、少年は部屋に入ってきた。
「えっと、俺、ユキトってんだ。ヒラヤマ、ユキト。」
「あ、わたしは、カナミ。よろしくね、ユキトくん。」
「ユキトでいいよ。よろしく、カナミねーちゃん!」
「うん。」
にっこりと、自然に笑って、握手をする。
それから、ユキトは、毎日わたしに会いに来た。
わたしも、ユキトが会いに来る時間が、楽しみで仕方なかった。
聞くと、ユキトもこの病院に入院しているらしい。あんなに元気そうなのに。
本人も、原因はよくわからないって言っていた。
「ねぇユキト、ユキトは、怖くない?」
「え、何が?」
ベッドに座って窓の外を眺めていたユキトは、本当に不思議そうに振り向いた。
「だって、自分でもよくわからないまま入院してるんだよ?」
「それは、俺が説明よく聞かなかったから。」
あっけらかんと、答えた。
「先生の言うこと、いまいちわからなくてさ。ほとんど寝てたんだ、俺。」
あはは、と恥ずかしそうに笑う。
そのしぐさ一つ一つが、かわいらしい。
「……カナミねーちゃんは、怖い?」
「……うん、怖いよ。ものすごく。」
そう、怖くて仕方が無い。
実は、わたしも自分の病状についてはよく理解していなかった。
ただ、いつか、死んじゃうんじゃないか、明日は目が覚めないんじゃないか。
そんな思いが、わたしの心を埋め尽くしていた。
ユキトといると、そんな不安も消し飛んでしまいそうに思う。
ユキトは、わたしに元気をくれる。
……でも、やっぱり。恐怖は、簡単に消えたりはしない。
「……ねーちゃん?」
「ごめん、ごめんね……。」
気がつくと、体が震えていた。
ユキトが心配そうにこっちを見ているけれど、震えは収まらない。
「……あっ!そうだ!」
「え、何!?」
突然、ユキトが叫ぶ。
「ずっと気になってたんだ。そこに飾ってる絵、誰が描いたの?」
ユキトが指差す先。
そこにあるのは、一枚の絵だった。
鉛筆だけで描かれた、粗末な絵。
「あれは……。」
ずっとずっと昔。
入院してすぐのころ。することがなくて。
毎日が暇で。
ただ、鉛筆一本で、ひたすらに描き続けた
「わたし。そこの窓から見える、風景。」
「すっげー!!」
そう叫ぶと、ユキトは窓の外と絵を何度も見比べた。
「やっぱ、すげー!ねーちゃん、絵上手かったんだ!ね、他にはないの?」
身を乗り出してくるユキト。
「うん……、あれだけ。ずっと昔に、やめたんだ。」
「えー!」
もったいない!とユキトは言う。
「なんでやめちゃったの?」
「それは……。」
なんで、だったんだろう。
……そう、たしか。
「わたしね。ここを出たら、絵の勉強をいっぱいしよう、って思ってた。」
ユキトは何も言わず、わたしの顔を見つめてくる。
そんなユキトの顔に微笑みを返しながら、あの時のことを思い出していく。
「あのころは、いつか退院できるんだって、ずっと思ってた。絵の勉強はどんなのだろう、って、ずっと楽しみだった。」
そう、昔のわたしはまだ希望でいっぱいだった。ただひたすらに絵を描きながら、遠い未来に思いを馳せていた。
「でもね。いつだったかな。突然、フッとね。わたし、退院できないんじゃないかって。思うようになったの。」
いつまで経っても、両親の顔に笑顔は戻らなかった。わたしの前では作っていたけれど……、わかる。
そして、いつまで経っても、わたしの胸は、痛みを放ち続けていた。
「それからかな。描く気にならなくなったのは。鉛筆を手に持っても、全然、動かないんだ。」
あはははは、と笑いがこぼれる。
こぼれるけど、わかる。この笑いは、ちっとも気持ちよくなんか無い。
むしろ、胸が締め付けられそうな、そんな笑いだった。
「カナミねーちゃん……。」
ユキトが、うつむいたまま呟く。
あぁ、つまらない話をしちゃったなぁ。
なんで、わたしはこんな話をしちゃったんだろう。
そんなことを考えていると、ふいに、手を掴まれた。
「ねーちゃん、ちょっと来て!」
「え、ちょっと……。きゃっ」
ユキトの力は、思ったより強かった。
勢いに負けて、わたしはバランスを崩す。
それでもユキトは待ってくれない。わたしは慌ててベッドから降りる。
足に、力が篭らない。ろくに歩かなくなってから、時間が経ちすぎていた。
「ま、まって、ユキト。どこへ行くの?」
それでも構わず手を引いて歩くユキトを、わたしは必死で追う。
「いーから早く。今しか見れないから。」
それだけ言って、また手を引き始める。
ついた先は、病院の屋上だった。
10階まであるこの病院は、屋上に来るとだいぶ高い位置に居る事になる。
「わぁ……。」
そこで、わたしは言葉をなくした。
目の前に現れたのは、まぶしいくらいに真っ赤な、夕焼け。
思わず立ち止まっているわたしの手を離して、ユキトは歩いていく。
屋上の真ん中くらいで、くるっと回って、こっちに体を向ける。
「俺さ、綺麗な景色、好きなんだ。」
「えっ?」
手招きに応じて、ユキトの隣に行く。
「こっから見える夕焼け。すごいでしょ。」
たしかに、ユキトの言うとおりだった。
正面に、真っ赤に燃える太陽がある。そして、フェンスに近付くと、紅く染まった町が見えてくる。
息をすることも忘れて、景色に見入る。こんなところで、こんな景色が見られるなんて。
「最初、部屋間違えた日。俺さ、ここ見つけたんだ。探検してて、偶然みつけた。」
横に立って、一緒に町を見下ろす。
「俺さ、綺麗な景色、好きなんだ。いつか絶対、バイクの免許とって、日本中の景色見て回るんだ。」
返事をせずに、耳を傾ける。ユキトも、それに気がついたのか先を続ける。
「ガイドブックとかに載ってるみたいなんじゃなくてさ。ここみたいな、意外な場所から見える、意外な絶景ってやつ?そういうのを探すんだ。」
そこで、言葉が終わった。見ると、ユキトはこっちを見ていた。目が合うと、ニカッと笑う。
「これが、俺の夢。」
なんでいきなり、と思った。そして、気づいた。
これは、ユキトなりに、わたしを励まそうとしてくれているんだ、と。
「そっか。叶うといいね。」
「うんっ!」
伝わったと感じたのか、ユキトはそれっきりまた町に目を戻した。
わたしも、同じようにした。
あれから、またたくさんの時が流れた。
いつまで経っても見つからない、わたしの新しい心臓。
元気なはずなのに、いつまでも退院できないユキト。
ユキトは、ずいぶん大きくなっていた。
「ユキト。あなた、本当に怖くないの?」
「ん、何が?」
ずいぶんと低くなったユキトの声。まだ子供っぽさは抜けないけれど。
「自分の病気もわからないままなんでしょう?なのに、こんなに長く入院してて。不安にならない?」
「んー。」
いつものように、わたしのベッドに腰掛けて、窓の外を眺める。その姿勢のまま、軽くうなって見せる。
「だって、いつか治るんでしょ?だったら、いーや。それより、俺はねーちゃんに会える方がうれしい。」
「ちょっと……。」
相変わらず、ユキトはストレートだ。油断していると、顔が真っ赤に染まってしまいそうだ。
「あっと、ごめん。俺、今日先生に用があるんだった。」
まただ。
最近、ユキトはよくこうして先生に会いに行く。
「ねーちゃん、どうしたの?」
不思議そうな声にはっとなる。気がつくと、ユキトの手を掴んでいた。
「う、ううん。なんでもない。ごめんね。」
なんで、手を掴んだんだろう。釈然としないまま、手を離す。
「心配するなって。んじゃ、また明日な。」
「うん。また明日。」
バイクに戻ってスケッチブックを取り出す。
適当な位置に座って、景色に目をやる。
しばらく眺めて、鉛筆を取り出す。
まず、最初の一線。
一つ頷いて、どんどん鉛筆を走らせていく。
「カナミちゃん。ドナーが見つかった。手術の日程を決めよう。……今日もご両親は来るかい?」
先生が、部屋に飛び込んできた。
「えっ……。来ると思いますけど……。本当ですか?」
「ああ、本当だとも。少し早いけど、おめでとう。」
大学では、水彩やクレヨン、油絵など、いろいろな技法を教わった。
だけど、わたしはやっぱり鉛筆が一番好きだ。
鉛筆一本で、色彩を表現していく。
それからは、目の回る速度で展開していった。
ユキトに報告したかったけど、わたしはすぐに病室を移された。
残念だけど、今は我慢しよう。
スケッチブックの中に、少しずつ風景が出来上がっていく。
あの日見たような、真っ赤に燃える太陽。紅く染まる、町並み。
やがて、手術は成功で終わった。
先生は、「おめでとう」と笑いかけてくれた。
両親は、ただ泣いていた。
それから少しして、わたしは面会ができるようになった。
でも、いつまで待ってもユキトは会いに来てくれなかった。
きっと、ユキトも手術が始まったんだ。
わたしが急に手術が決まったから、報告に来れなかったんだ。
だから、今度はわたしがユキトの事を祈ろう。
いつものように笑いながらやってくる、その日を待ちながら。
ぱたっ。
小さな音にはっとする。
スケッチブックの上に水滴が落ちていた。鉛筆の跡にはじかれて、小さな水玉になっている。
雨……にしては、続きが来ない。
退院のその日。
わたしだけが、先生に呼ばれた。
わたしが使っていた病室の、……ひとつ、下の階の部屋。
結局、あれから会えなかった、ユキトが使っていた部屋。
そういえば、一度もここに来たことはなかった。
長い長い静寂。しばらくして、先生がゆっくりと口を開いた。
「カナミちゃん。君には、言っておかなきゃと思ってね。」
そう切り出して話された内容。
「ユキト君が、死んだんだ。」
「っ!」
言葉をなくすわたしの顔を一瞬だけ確認して、先生は続きを言う。
「彼はね、頭を病んでいたんだ。脳の機能が狂って、身体に誤った命令を送ってしまう。そういう病気だったんだ。」
「そんな……。でも彼、いつも普通に」
「奇跡的に、ね。」
遮られた。
「君と一緒のときは、どういうことか発作は出なかった。だけど、実際病室では……。本当は、彼には何度も出歩き禁止を指示していたんだよ。
でも、聞かなくってね。それに、君といる間だけは、なぜか発作を起こさない。だから、僕たち医者としても、そういう奇跡に賭けてみてたんだ。」
「そういえば、彼、よく先生に会いに行くって……。」
「そう。でも、病気のことじゃない。僕に会いに来ていたのは、ドナーのことを聞きに来ていたんだ。」
ドナー。予感が、頭を駆ける。
「脳のことは専門外なんだけどね。臓器なら、僕の分野だ。彼は、自分が君のドナーになれないか、と訊いてきた。」
自分の胸に、手を当てる。
「最初に聞いてきたのは、君とであってすぐ。だけど、知っているかい?日本の法律では、ドナーになるには十五歳以上でなければならない。……彼は、見事に心臓を守りきった。」
十五歳。彼が頻繁に先生のところへ行き始めたのは、ひょっとしたら……。
「普通なら、それまで持つ状態なんかじゃなかった。本当に、すごいよ。彼は。自分がどんな病気か知りながら、自棄にもならずに待ったんだ。十五歳になって、君に合う心臓かどうか、検診をして。
……本当に、彼は奇跡の塊だね。適正が合うなんて、どんなにすごい確率なのか、それは君が一番よく知っていると思う。」
トクン、トクンと。力強い鼓動を感じる。
ユキト……。
よくわからない。そう言って笑ったあの顔が浮かぶ。
「その後、彼はすぐに発作を起こした。若い。あまりにも若すぎる。……だけど、彼は最期に笑った、と聞いたよ。そして、君の名前を呟いたらしい。」
ぱたっ。ぱたたっ。
水滴が連続して落ちる。
やっと気づいた。これは、涙だ。
あわてて、スケッチブックをよける。
「彼にとっては、やり遂げた一生だったんだろう。……彼にしか、わからないことだけれど。」
そこまで言うと、先生は立ち上がった。
「これが、僕の知っていることだ。……言わないほうが、よかったかな?」
わたしは、強く首を振る。
「そうか。勝手なことをしたと思っている。けれど、言うべきだと思ったんだ。……さぁ、君の両親が待っている。これ以上心配もかけられないし、早く行こう。」
いつかのウィンクを残して、先生は先になって歩き始めた。
わたしの涙を感じたのか、鼓動が少しだけ強くなる。
ありがとう。わたしは大丈夫。
ただね、少しだけ。ユキトの事を思い出したんだ。
あの日、語ってくれたユキトの夢。
バイクに乗って、絶景を探す。
叶えられなかった夢を、代わりにわたしが、ううん、一緒に、叶えている。
わたし、がんばって絵の大学に入ったんだよ。
免許も取らせてもらった。
お父さんとお母さんは心配していたけれど。これだけは譲れない。
だから、ね。ユキト。
これからも、わたしのいのちをまもってね。
わたしのいのちをまもるもの Fin