キミの絵


 キミのこと、おぼえてる。
 キミがかけてくれた言葉、おぼえてる。

 キミとすごした時間、おぼえてる。



 退院した。
 家よりも、ずっとずっと長く過ごした、あのしろいへや。
 たくさんの笑顔に見送られて、わたしは退院した。

 それから、少し時間が経った。
 しろい、雪が舞う季節。
 世界がまた、しろく染まるとき。

 キミの顔を、上手く思い出せなくなっていた。

 何度やっても、うまくいかない。
 強く想っても、応えてはくれない。
 大切な顔なのに。
 大切な、人なのに。
 彼は、今も、わたしのいのちをまもってくれているというのに。
 トクン、と。彼が跳ねる。
 ごめん。ごめんね。思い出すから。
 トクン、トクン、トクン。
 彼は、わたしの中で跳ね続ける。
 お願いだから、わたしを責めないで。
 お願いだから。お願いだから。お願いだから。
 それでも、彼は跳ね続ける。
 トクン、トクン、トクンと。

 いつしか、周りはくろく染まっていた。
 何にも存在しない、無の世界。
 怖くは無い。現実味が何も存在しないから。
 こんなものより、あの、しろいへやのほうが、何倍も、怖い。

「やぁ。」
 声が聞こえた。
 後ろから。あの、ひどく懐かしく、優しい声が。
「ユキ……ひっ」
 振り向いて、思わず、のどが引きつる。
「どうしたの?そんなに、おびえて。……俺の顔に、何かついてる?」
 不思議そうな声になる。
 違う。そんなんじゃない。その逆だ。

 あなたのかおには、なにも


「っ……!」
 バサッ!っと。
 ものすごい音を立てて、何かがわたしの上から落ちる。
 その何かは、布団だった。分厚い、寒さを避けるための。体を温めるための。
 ハッっとなって、あたりを見回す。
 そこには、見慣れた、見飽きた、あのまっしろな……部屋ではなく。
 未だに見慣れない、だけどあたたかい、自分の部屋があった。
 そこまで確認して、ようやく、今のが夢だとわかった。
 トクン。トクン。トクン。
 彼が暴れる。ただひたすらに。
「ユキ……ト……。」
 わたしは、両手で顔を覆い、ただ、泣いた。


「叶実。叶実。入るよ。」
 父さんの声。入るよ、と言ったのに、部屋の前で立ち止まっている。
 きっと、わたしの返事を待っている。
「……どうぞ。」
 なんだか、他人行儀。それに、なんだか、あの日と重なる返事。
 チクリと、心が痛む。
「入るよ。」
 もう一度そう言って、カチャリと、部屋の扉が開く。
 背が高くて、少し細めの父さん。
 あの頃はよく見もしなかった。こんなに、やつれてたんだ。
「叶実。父さん、出先でこんなものを見つけてきたんだ。」
 そう言って、差し出されたもの。それは、一枚の紙だった。
「叶実、昔はよく、絵を描いていただろう。気が向いたらどうかと思ってね。」
 絵画大会の作品募集。そこにはそう書かれていた。
「その、せっかく退院したのに、元気がないだろう。気分転換でもどうか、と思ってな。」
 それだけ言うと、父さんは部屋を出て行った。
 しばらくして、わたしはその紙を手に取った。
 絵画大会。想像より、かなり大きい大会のようだった。
 技法も、題材も自由。期限は、すこし短い。
 こんなもの、普通に見つかるようなものではないだろう。
 探してくれたんだ、わたしのために。わたしが元気を出せるように。

 描かなきゃ、と、なんとなく思った。
 描こう、と、自然に思えた。

 でも、何を?
 技法は……、決まっている。わたしは、鉛筆画しかできないから。
 問題は、題材。
 自由、ということは、かえって難易度が高い。
 何より、思いつかない。
 何を描こう。何を描こう。なにをかこう。

 彼が、大きく跳ねる。
 ハッと、息をのむ。
 そうだ。そうだよね。
 キミを、描こう。


「ユキトくんの……ご両親、ですか?」
「はい。どうしても、会っておきたくて。」
 わたしは、あの病院に居た。
 ユキトの、ご両親に会うために。
 わたしは、一度もユキトのご両親に会ったことがない。
 ユキトを描くために。ちょっとでも、ユキトを感じられるように。
 それに、わたしはまだ一度も、お礼を言えてない。
 大切な、ユキトのいのちを預かっているのに。
 だから、会っておきたかった。
「カナミちゃんのお願いなら……理由もはっきりしているし、大丈夫とは思うけど……。」
 受付の看護師さんは、何かを迷っているようだった。
 考えていることは、きっと、ひとつの懸念。だから
「大丈夫です。きっと。」
「そっか。わかった。少し、まっててちょうだいね。」
 一言、決意をつげると、看護師さんはどこかへ連絡を取り始めた。
 しばらく言葉を交わしてから一度受話器を置き、また鳴ったのを受ける。
 そしてまた言葉を交わしてから受話器を置き、今度は自分からどこかへかける。
 そして。
「お待たせ、カナミちゃん。さっきユキトくんのご両親に事情をお話ししたんだけど、ぜひ来てください、ってさ。」
「よかった……。ありがとうございます。」
「んーん。気にしないで。いい絵が描けるといいね。」
「はい。ありがとうございます。」
 ひらひらと手を振る看護師さんに別れを告げ、教えてもらった住所を確認する。


 綺麗な、そしてかわいい家。
 ここが、ユキトの家だ。
 そっと、インターフォンを押す。
 ピン、ポーンと、呼び出し音が鳴り、少ししてドアが開く。
「あの、わたし、カナミです。……ユキトくんの、」
「あぁ、きみがカナミちゃんか。よく来たね。病院から、話は聞いてるよ。」
 出てきたのは、背の高い男性だった。カジュアルな格好をした人で、眼鏡がよく似合う。
 ……この人が、ユキトの、お父さん。
 近くにいると、なんとなく安心するような気がするのは、ユキトが喜んでいるからだろうか。
「ユリ、友理。カナミちゃんがきてくれたよ。……どうぞ、カナミちゃんも、あがって。」
 うなずき、促されるままに、居間に通された。
 家の中も奇麗に片づけされていた。なんとなく、この人のイメージに合っていて、自然と納得してしまう。
 居間のソファに座って待っていると、お茶を載せたお盆を持って、ユキトのお父さんが戻ってきた。
「すまないね。友理……、妻は、今は気分がすぐれないんだそうだ。その……」
「あっ……。」
 ユキトのお父さんが、言葉を濁す理由。ユキトのお母さんが、姿を見せない理由。
 それは、つまり
「ごめん、なさい。」
 思わず、謝ってしまう。が。
「君が謝ることじゃない。と、いうか、絶対に謝らないでほしい。」
「えっ?」
 目を丸くして思わず顔を見てしまうと、彼によく似た目をやさしそうに細めて、ふっ、と笑った。
「幸人は、あの子は、もう本当に、駄目だったんだ。もっと早くに……死んで、しまっていても、おかしくないくらいにね。」
 細めた眼を、そのまま窓の向こうに向ける。
 ふと、彼も、眼鏡が似合いそうだな、と思った。
「ところが、そこで、君に出会った。幸人は、思っていたよりも、ずっと長生きをした。そして、自分の人生の意味を見つけ、やり遂げた。あの、短い人生に、幸人は自分の生きた理由をみつけることができたんだ。全て、君のおかげなんだよ、カナミちゃん。」
「そんな」
 驚いた。まさか、そんな風に思っていたなんて。
「きっと、幸人は幸せだと思う。大切な人を守る、それこそ、一生の騎士になったんだからね。正直、私は幸人が少しうらやましいくらいなんだよ。」
 そう言いながら、ちら、と、奥を覗いたのが見えた。
「さて、と。ごめんね、私ばかり話が長くなってしまって。さて、カナミちゃん。今日は、何か用事があったんだろう?」
「あ、はい。」
 突然話を振られ、あわてたように鞄から一枚の紙を取り出す。
「絵画大会……。これが、何か?」
「これに、ユキトくんの絵を出展させてもらえませんか?」
「なるほど。」
 ユキトのお父さんは、その紙を手に取ると、詳細に目を通し始めた。
「話したいことがある、なんていうから、もっと大変なことかと思ったけれど。そのくらい、勝手に描いてくれてもよかったんだけどね。」
「そんなわけには」
「うん、わかってる。カナミちゃんは、なんとなく、そんな感じがするからね。」
 イタズラっぽく笑う。こんな顔もできるんだ、となんとなく思う。
 嫌味な感じも、笑われた感じもしない、不思議な人だった。
「ふぅん……。」
 あらかた読み終えて、息をついた。
「そうだね、幸人の絵、出してもかまわないよ。ただ」
「ただ……?」
「ちょっとしたお願い……いや、条件があります。のんでくれますか?」
「条……件、ですか?」
「そう、身構えることはないよ。」
 身構えるわたしを見て、面白そうに肩を揺らす。
「私があなたに課す条件はただ二つ。一つは、必ず入賞してください。もう一つは」
 そこで少しだけ間を空ける。
「その絵を、私たちに譲ってもらえますか?」
 そういうことか。それなら、わたしが迷う理由はない。
「わかりました。必ず、入賞の報告と一緒に、また来ます。」
「ありがとう。」
 そう言って笑ったその顔を見た瞬間、わたしはあることに気がついた。
 ユキトの顔。あれだけ願った、ユキトの顔を、完全に、思い描けていることに。
「あ……。」
 ダメだ。今は、ダメだ。
「? どうかしたかい?」
 ここで泣いたりしたら、ユキトのお父さんに心配をかけてしまう。
「……っ、大丈夫、です。ありがとうございました。」
 釈然としてなさそうなユキトのお父さんに別れを告げて、わたしはある場所へ急いだ。
 わたしが行くべき場所は、まだあと一つある。
 今はまだ、泣くときじゃない。


 わたしはまた、あの病院に戻ってきていた。
 今度は、先生にお願いがある。
「なるほど、君がいた部屋に入りたい、と。」
 そう、わたしが行くべき場所。それは、ユキトと過ごした、あの病室。
「しかしそれは、どういう理由からかな?確かに部屋は空いている。しばらく人が入る予定もないよ。でも、理由次第では、君を入れるわけにはいかない。わかるね?」
 先生が言いたいことはよくわかる。だからこそ、はっきりと、理由を言う。
 それこそが、先生の問いへの、明確な回答になっているから。
「はい。わたし、絵画大会へ出展する絵に、ユキトを描きたいんです。そのために、ユキトを一番感じる場所、あの部屋に、もう一度入りたいんです。」
「……いい眼だ。決して、過去に縋ろうという気持ちじゃないんだね。わかった。入室を許可しよう。ところで、何日必要になるのかな?」
 先生は、わたしがあの部屋で絵を描くと思っているのだろう。
 たしかに、そのほうがユキトを強く想うことができるかもしれない。
 でも、それじゃきっとダメなんだ。
 先生が言ったように、過去に縋りたくなる。そんな自分が居るような気がして。
 だから、こう答えた。
「一日です。」
 と。
 それで、十分。
 だって、ユキトはもう、わたしのそばに居るんだから。


 しろい、しろいへや。
 奇麗に片づけられて、本当に何もない、真にまっしろなこの部屋。
 思えば、わたしが居たときには、もっと、いろいろな色があったんだな、と思う。
「今更になって、気がつくなんてね。」
 壁を見る。あの絵は、もう飾られていない。
 今は、家の壁に飾られているんだから。
「ごめんね、ユキト。ずっと、あなたの顔が思い出せなかった。」
 わたしはなんて薄情なんだろう。そう、何度も、自分を責めた。
「そのたびに、ユキトは、わたしを元気づけようとしてくれた。」
 何度も、何度も、激しく、わたしの胸を叩いて。
「なのに、わたしは、責められているとしか思えなかった。ユキトは、そんな子じゃないのにね。」
 あはは、と笑ってみた。笑える。今だから、笑える勘違い。
 とくん、と、彼が一度跳ねる。気にするなとでも、言ってくれているかのように。
「うん、ありがとう、ユキト。わたし、もう迷わない。」
 部屋の扉を開ける。きっと、もう振り返らない。

「さぁ、キミの絵を描こう。」
 一歩、大きく足を踏み出した。


 提出された作品に描かれていたのは、一人の子供だった。
 笑顔がまぶしいその少年の絵は、見ているだけでこちらも頬が緩みそうだった。
 鉛筆一本で描かれていたのに、その絵を見た人々の目には、そうは映らなかっただろう。
 その絵は驚くほどにカラフルで、ハッとするほどに鮮やかだった。
 誰もが息をのんだその絵は、しかし、佳作に終わった。
 展示会の間、その「佳作」という言葉に不満を漏らす客も多かったという。

 その絵のタイトルは

 『キミ』


 そして、その作者は今。


「叶実。何か、手紙が来ているよ。」
「手紙?何だろう。」
 その手紙にはこう書かれていた。

 私立岡倉大学美術科教授 繁村寿人(シゲムラヒサト)より。
 君を、当大学の、特別入校生としてスカウトしたい。
 と。
 


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