星降る川に


それは、あまりにも突然のことだった。

別に、隠されていたわけじゃない。
父や母にとっても、突然のことだったんだから。
でも、私にすれば……。突然過ぎるにもほどがあった。

「薫?今日ね、お父さんの転勤が決まったの。」

母は、私にそう告げた。
「ふーん。どこに?」
「驚かないでね……。ワシントンですって。」
「ふーん。…………どこって?」
「だから、ワシントンよ。アメリカの。」
そのとき、私の目の前は完全に真っ黒になった。


「え〜、このたび、水瀬薫(ミナセ カオル)さんのお父さんの転勤が決まりまして
その準備のため、突然ですが、今日で学校を辞めることになりました。」
少しハスキーなおばさん声で、先生が告げる。
教室は、あまりに突然すぎることに騒然となった。

「ね、ね、薫!転勤って、どこになったの?」
休み時間になると、早速、私の席に友達が集まってくる。
「ん〜とね。確か、ワシントンだって。」
『わしんとん〜?』
奇妙な声でハモった。
「うん。……アメリカのね。」
「そっかぁ……。遠くなっちゃうね……。」
特に仲の良かった、恵美(エミ)が残念そうにつぶやく。
「ねえ!向こうに行ったら、手紙頂戴ね!私も書くからさ!」
「うん。」
「約束だよ?」
「うん!」

恵美とは、小学校からの付き合いだった。
何の相談もしてないのに、受験する高校が同じで、クラスまで同じになった。
それだけに、恵美ともお別れする日が来るなんて、思いもしなかった。

私は、今日でこの学校を去らなければいけない。
特に苦労もしないで入学した高校。伝統も何もなく、ただ古ぼけただけの校舎。
カッコイイ先生。大っ嫌いな先生。
あまり話さなかった友達。特に仲の良かった友達。
いざこうなると、いろんなものがよく見えてきた。
たった、一年しか居なかったのに。
でも、居なくならなくちゃいけないんだってことも、痛いほどによくわかった。

「ただいまぁ……。」
「お帰りなさい。十分にお別れはできた?」
かなり無神経なことを訊いてくる母を軽くにらみ、私は部屋に戻った。
かばんを床に放り、バフッ、とベッドに倒れこむ。
(あ〜、ダメだ。用意しないと。)
しばらくぼーっとした後、のそのそとベッドから這い降りる。

出発はまだもう少し先だから、時間がないわけじゃない。
それでもこんなにあわただしいのは、母がかなりの心配性だからだ。
母いわく、「時間はあるに越したことないでしょ」だそうだ。
微妙に使い方が変な気がする。
取り留めのないことを考えながら、服やら小物やらをダンボールに詰めていく。
漁ってみると、やけに懐かしいものがたくさん出てきた。
その中のひとつ、ある写真立てを手にしたとき、ふと動きが止まった。
それは、古くなって色あせてしまった写真。
六歳くらいの女の子にじゃれつかれて、困ったように笑っている坊主頭の少年。
「隆ちゃん……」
呟く。
この少年は、高橋隆成(タカハシ リュウセイ)。隣の家に住むお兄ちゃん、といった感じ。
彼はもう大学一年で、私より二つ年上だ。
ここ最近は何かと忙しいらしく、あまり見かけていない。

実は、私は隆ちゃんが好きだった。
いつからそう思うようになったのかはわからない。
ただ、気がついたら、「お兄ちゃん」から「男の人」になっていた。
小さくため息をついて、写真立てを机の上に戻す。
せめて、出発までにもう一度会いたかった。



時間が経つのは、とても早い。後に何かが控えていると、なおさらだ。
たとえそれが、いいことでも、悪いことでも。

出発まであと一週間。

そのころになると、もう出発の準備はほとんど終わっていて、あとは出発を待つだけとなっていた。
恵美も学校だし、準備もないし、早々にすることがなくなった。
……要するに、とても暇だった。

今日も、一度片付けたダンボールを開けて、漫画を取り出す。
この漫画も、もう何度も読んだもので、ほんの少しの暇つぶしにしかならない。
「はぁ……」
こんなんで、あと一週間ももつんだろうか。
軽くため息をついた、そのとき。表のほうで爆音がした。どうやらバイクのようだ。
いたって普通のエンジン音なのだが、やけに大きな音に聞こえるのは、きっと近いからだろう。
その爆音は家の前を通り過ぎ、少しして止まった。
そこは、となりの家。……隆ちゃんの家だ。
私ははっとして窓から体を乗り出し、となりの家を見た。
ちょうど体格のいい男の人がバイクから降りたところで、ヘルメットをはずしているところだった。
そのヘルメットの下から出てきたのは、迫力のある厳つい顔に、坊主頭。
それは、紛れもなく

「隆ちゃん!」

声に反応して、男の人が振り向く。
「あれ……?薫ちゃん?」
私は、その反応を確認するとすぐに体を引っ込め、玄関に走って行った。

外に飛び出すと、まず隆ちゃんの家を見る。
思ったとおり、隆ちゃんはまだ家の前に居た。彼は、そういう人間なのだ。
「隆ちゃん!」
「薫ちゃん、学校は?」
隆ちゃんのそばに行くと、すぐに訊かれた。
「うん、ちょっとわけありでね……。」
「え゛。なんか問題でも起こしちゃった……?」
本気でたじろぐ隆ちゃん。動きが落ち着かなくなった。
「……、ぷっ。違うよ。」
そんな隆ちゃんをしばらく眺めていると、こらえきれずに笑いがこぼれた。
まぁ、わざと誤解しやすいように言ったのは私なんだけれど。
「外じゃ話しづらいしね。ねぇ、久しぶりに中入ってもいい?」
「うーん、いいけど、何もないよ?」
「やった!おじゃましまーす」
許可以外の言葉なんて聞いちゃいない。
私はすぐに隆ちゃんの家の玄関を開けた。
「じゃあ、ぼくはバイク置いてくるから。部屋覚えてるよね?」
隆ちゃんは少し笑い、そう言った。

隆ちゃんは、厳つい顔で、体格もよくって、しかも丸坊主で、目つきが少し鋭い。
何も知らない人なら、にらみつけられたら何もいえなくなるだろうし、そもそも近づいたりしないだろう。
でも本当は、とってもやさしくて、よく気がついて、さらに、すこしだけ気が弱い。
極めつけは一人称の「ぼく」。見事に、外見と中身が合っていない。
そんな、本当の隆ちゃんを知っていることを、私は少しだけ誇りに、自慢に思っている。

「薫ちゃん、本当にどうしたの?学校行かないなんて、よっぽどじゃない?」
今でも「ちゃん」づけで呼ばれるのは、やっぱり「隣の妹」くらいにしか思われていないからなんだろうか。
ちょっとうれしいけど、ちょっと寂しかった。
でも、当然、そんな気持ちなんか隠して。
「実はね、うちの親、転勤することになったの。それで、引っ越すことになったんだ。だから、学校辞めて、荷造り。」
「ふぅん、そうだったんだ。……ところでさ、どこに行くの?」
「ワシントン。」
「ふーん……」

間。

ほんの少しの。

そして。

「え……?」

隆ちゃんから、間の抜けた声があがる。
「えーと、聞き間違いかな?ワシントンって聞こえたんだけど……。」
うなずく。
「えーと。ワシントンって言うと、ほとんどの人は略すけど、正しくはワシントンD.Cっていう、アメリカの首都のこと?」
妙に説明くさいのがおかしくて、笑いながらうなずく。
「そっか……。」

また、間。

「ええええええええええええええええええええ!?」

突然、叫んだ。というか、吼えた。
「そんなに遠くに行っちゃうんだぁ〜……」
多分、古くからの付き合いがあって、家族も同然だった私たちがいなくなる、という意味で残念そうな声を出したんだろう。
隆ちゃんは、ちょっと前に両親とも事故で亡くして、独り身になったばかりだったから。
でも、残念そうにしてくれたのが、少しだけうれしかった。
「あーあ……。一番家族に近かったのになぁ。」
だから、隆ちゃんの口から聞いた瞬間、ちょっとだけムッっとした。
だから……。


バチンッ!

「痛っ!」

デコピン一発で勘弁してあげることにした。

久しぶりに隆ちゃんの家でのんびりしていると、あっという間に時間が過ぎていった。
「あれ?もうこんな時間か。薫ちゃん、そろそろ帰ったほうがいいよ。」
隆ちゃんは、無意味に真面目である。というか、生真面目である。
時間はまだ5時だというのに、隣家の住人に帰宅を促す。
「えー?」
私が不満そうな声を上げても
「だーめ。」
の一言で終わり。
いつもなら、そこで諦めて帰るんだけど……。
「それじゃあさ。私のお願い聞いてくれたら、帰ったげる。」
やたらふてぶてしい私の態度に少し困ったような顔をしたけど、うなずいてくれた。
「……そうだね。もうこれで最後になっちゃうかもしれないし。うん、わかった。無理そうなのじゃなかったら、どんなわがままでも聞いてあげるよ。」
「最後」という言葉が、やたら重く胸に響いたけれど、「どんなわがままも」という単語で、忘れることにした。
もう少しで七夕がやってくる。
なのに、この辺はちょっとした都会で、夜も明るく空気も悪い。
そのせいで、星なんかほとんど見えない。だから。
「七夕の夜に、星をいっぱい見たい!」
私は言った。
「え?でも、この辺じゃあまり」
「だから、連れてってよ。隆ちゃんが。」
「え……でも」
「いいから!お願い!」
少しでもダメといわれたら、それだけで心が折れそうだった。
だから、隆ちゃんに全てを言われる前に、畳み掛けた。
必死に頼む私に、隆ちゃんはついに折れた。
「わかった。ひとつ、いい場所が浮かんだから、そこに連れて行ってあげる。……出発はいつ?」
「え?えっと、来週だけど。どうしたの?」
返事をしないで、ぶつぶつとつぶやき続ける。
「ええと、向こうに着くのが……、で、だから……。」
やがて、独り言が止まり、少しだけ黙ってから
「うん、大丈夫だと思う。でも、ちょっと遠出になるよ。明後日の朝早くにここを出て、その三日後の昼ごろに帰ってくる。ちょっときつめの予定だから、しっかりと準備をすること。」
「うん。」
「あと、これは絶対に守って。おじさんとおばさんが心配するといけないから、しっかりと説明をして、許可をもらうこと。わかった?」
「……うん。」
私が子ども扱いされてるみたいで少しムッとしたけど、隆ちゃんとお出かけする最後のチャンスだから、素直にうなずいた。

そして。ついにこの日がやってきた。
思った以上にお父さんが粘ったけど、相手が隆ちゃんだということと、最後だから、という言葉についに折れてくれた。
空がうっすらと明るさを帯びる午前5時。私は家を出て、隆ちゃんの家の前に来た。
ガレージのほうから音が聞こえてくる。
「あ、おはよう薫ちゃん。」
「おはよう、隆ちゃん。」
実は、「まだ寝てるかな?」なんて思っていたから、少し驚いた。
隆ちゃんは昔から朝が苦手で、隆ちゃんのお母さんの怒鳴り声が私の目覚まし代わりだったくらいだ。
「ん、どうしたの?」
「ううん、なんでもない。」
いつの間にか、笑いが顔に出ていたみたいだった。
だけど、考えを中断させてくれた隆ちゃんに感謝する。
だって、おばさんは……。
「それより、すごい準備だね。」
せっかく中断した考えが、また出てきた。
私は強く頭を振って、隆ちゃんと話をすることにした。
「そうだね。予定通りに行けばいいんだけど、念のためにね。」
すごい準備、というのはバイクの後部に取り付けられたもののコトだ。
左右に吊り下げる感じで箱のようなものが取り付けられていた。
ちょうど今、隆ちゃんがその上に丸いものを縛り付けている。
「よし、っと。薫ちゃん、準備はいい?」
「うん。大丈夫。」
「うん。それじゃ、行こうか。

隆ちゃんにバイクの後部座席への乗り方を説明してもらって、なんとか座る。
前に座る隆ちゃんの背中は大きくて、固くて、温かかった。
「大丈夫?乗り心地悪くない?」
「大丈夫。隆ちゃんこそ、背中痛くない?」
正直な話、初めてのバイクはすごく怖い。だから、隆ちゃんにしがみついている。
そのせいで、かぶっているヘルメットが、隆ちゃんの背中に思いっきり押し付けられていた。
「平気だよ。それじゃ、出発するよ。」
やがて、爆音が響いて、ゆっくりとバイクが進み始めた。

家を出てからは、ほとんど走り通しだった。
さすがにもうバイクにも慣れてきて、最初ほど怖くはなくなっていた。
それでも離れるのは惜しくて、隆ちゃんにしがみつく手は緩めなかった。


太陽が高く上るころ、つまり、昼。
どこかの高台で、バイクはとまった。
「ふぅー。薫ちゃん、疲れてない?」
バイクから降りるのを手伝ってくれながら、隆ちゃんは訊く。
「んー、ちょっと、疲れたかも。ずっと同じ体勢なんだもん。」
「だろうね。ぼくも、疲れちゃった。」
言いながら、コキコキと体を鳴らす。
「ちょっと、休憩にしよう。おなかも空いちゃったし。」
と言いながら、あたりを見回す。
「うん、途中にコンビニがあったから、お弁当でも買ってくるよ。欲しいものある?」
私が首を左右に振ると、そっか、とうなずいて走っていった。
……バイクでいけばいいのに。
隆ちゃんが帰ってくるまで手持ち無沙汰になった私は、とりあえずうろつくことにした。
バイクでずっと走りとおしただけあって、もう完全に見覚えがない場所まで来てしまっている。
「わぁ……。」
高台から下を見下ろすと、遥か遠くに家並みが見えた。
ずいぶん小さい。思っているより、高いところに居るようだ。
ひょっとしたら家のほうが見えるかな、と目を凝らしてみるけど、見えない。
そもそも方角があっているのかすらわからなかった。
私、浮かれてるなぁ。
すぐにわかる。意識する必要すらなかった。
思い切り頭を振ると、視界の端に一瞬だけ、何かが映った。
「ん?」
今度はゆっくりと、そっちに顔を向ける。
そこは、ここより少し低い場所にある駐車スペースだった。
そこに、一台のバイクが停めてある。
そして、そのバイクのすぐそばに、女の人が居た。
遠めに見てもわかるくらい、その人は美人だった。
腰まではありそうな、綺麗な長い黒髪。
そこからほんの少しだけ突き出た、白い顔。
バイクに乗るためか、まったく飾り気のない服装をしていたが、それすらも彼女を引き立てる材料に思えてくる。
彼女は、一段高くなっているところに腰掛けて、大きなノートのようなものを抱いていた。
右手が忙しく動いているから、多分、スケッチでもしているんだろう。
ちょっと、声をかけてみようか。
普段では思いもしないようなことを一瞬考えて、
「お待たせ!……あれ、どうしたの?」
という声に中断させられた。
「ううん、なんでもないよ。」
と答えて、私は隆ちゃんのバイクに向かっていった。



期待していたわけじゃない。
断じて、そんなことはない。

のだけれど……。


今居るところは、ごく普通のビジネスホテル。の、シャワールーム。
軽いユニットバスがついているだけの、いわば寝るためだけのホテル。
隆ちゃんは、ごく普通に二人用の部屋をとった。
一人にされても困るし、金銭的にも大変だとはいえ、一切の躊躇がないというのはどういうことだろう。
そりゃあ、隆ちゃんに限って、そんな色気を期待してもダメだろう。
そもそも「何か」あったほうが問題だし……。

「って、私は何を考えて……。」

心の底からため息があふれてきた。
一度、シャワーを水に戻して頭を思いっきり冷やす。
それから、また温水にして体を流す。


「はぁ……」
シャワーからあがって様子を見ると、予想通りというかなんというか。
正直、あれだけぎゃあぎゃあと(頭の中で)騒いでいた自分がひどくバカなんじゃないかとすら思える。
「明日も走り通しだから、早く寝たほうがいいよ。」
の弁にたがわず、隆ちゃんは、自分でそれを実行していた。
要するに、先に寝てしまっていた。

「……はぁ。」
ため息が止まらない。
仕方なく、私も寝ることにした。



「隆ちゃん、あとどのくらい?」
ホテルを出てからもずっと走りっぱなし。
私が想像していたよりも、ずっと遠いところへ向かっているようだった。
だから、お昼の休憩中に訊いてみた。
「うーん、夕方には、つくはずだよ。疲れちゃった?」
「ううん。思ったより遠くへ行くんだなぁって。」
なるほど、とつぶやいて、隆ちゃんは手に持っていたホットドッグをかじる。
「確かに、ちょっと遠すぎたかな。ごめんね、のんびりする暇もなくて。」
「え、え?」
謝られるとは思っていなかった。
一瞬言葉が思いつかなかったけれど、とにかく急いで言葉を捜す。
「ううん、星が見たいって言ったの私だもん。ぜんぜんだよ!」
そっか、とまたつぶやく。
「それより、これから行くところって、どんな場所なの?」
ここはとにかく話題を変えたほうがいい。
だから、気になったことをすぐさま訊いてみる。
「それは、秘密。」
「えぇー!?」
まさか教えてくれないとは思っていなかった。
「言っちゃったら楽しみが半減しちゃうでしょ?だから、秘密。」
「えー!」
しつこく食い下がっても、隆ちゃんにしては珍しい、意地悪な笑みを浮かべたまま取り合ってくれなかった。
しつこく食い下がろうとしていると

「ちょっとキミぃ!学校はどうしたのかな?」

生理的に嫌悪感を覚えるような、なんともいやな声が聞こえてきた。
見ると、『こどもをまもろう』と書かれた車が一台、停まっていた。
ガチャリ、と扉が開いて出てきたのは、見るからにイヤミったらしい男だった。
別に、服装が気取っているとか、そんなんじゃない。
ただ、見ただけで悪寒が走る。そんな人だった。
左腕には、『指導員』と書かれた腕章をしている。人選ミスにもほどがあると思う。
「黙ってないで答えたらどうかな?ん?」
こっちの反応がないのを見ると、こっちに近づいてきた。
「見たところキミは中学生じゃないのかな?ん?ドラマでも見て、アソビに憧れでもしたかい?」
「ちょ、中っ……」
中学生って!
嫌悪感が、一気に限界までハネあがった。なんなんだコイツは。
「キミもキミだよ。こんな小さい子を連れまわして、何する気だったんだい?ん?」
「小っ……!」
さっきから、人が気にしていることをヌケヌケと……。
何なんだ、このオッサンは!
「ちょっとあん」
「おい、オッサン」
いい加減イラついてきて、何か言ってやろうとした直後、聞いたこともない声が聞こえてきた。
低くて、重い。ものすごく怖い声だった。
「ヒッ!……逆らうのかい?学校へ連絡するよ?」
このオッサンにも聞こえたらしく、突然態度が情けないものにかわった。
今までそう言えば、たいていの学生はおとなしくなっていたのだろう。
「できるモンならしてみろ。生憎、俺は大学生だ。」
驚いたことに、声の主は隆ちゃんだった。
普段の温和な隆ちゃんからは、想像もつかないような声だ。
「んで……。散々オマエが言ってたこいつも、同じだ。」
『え……』
……最悪。オッサンと声がかぶった。
「オマエさ、俺の女に、何変な難癖つけてんの?コイツが気にしてるってことくらい、見て気づかない?」
俺の……女?
「すっ、すみま」
「消えろ。」
「はっ、えっ?」
「聞こえなかった?消えろ、つってんだ」
「はっ、はいぃぃぃ!」
最早、最初のえらそうな態度は見る影もなかった。
転げそうになって車に飛び乗ると、悲鳴のような音をさせて発進していった。

しばらく、呆然とその車を見送っていた。
隆ちゃんの変身もそうだし、途中で
「俺の、女って……」
確かに、そう言った気がした。
訊いてみようと思って、隆ちゃんの方を見ると

地面にへたりこんでいた。

「りゅっ、隆ちゃん!?」
驚いた。
さっきよりも、断然驚いた。
「よ、よかったぁ、上手くいって……。あ、か、薫ちゃん、大丈夫?」
ゆっくりとこっちに顔を向けるなり、言う。
そう訊きたいのは、こっちのほうだ。
「え、さっきの声、隆ちゃん、だよね?」
「う、うん。」
「本当に?」
「う……、うん。」
「ほ、本当の、本当に?」
「うん。……ごめんなさい。」
……なんで、謝るの。
やっぱり、いつもの隆ちゃんだ。
となると、さっきのことがいっそう信じられなくなる。


……結局、お礼も、何もかも、うやむやになったまま、またバイクは出発した。



空が赤く染まり始めたころ、バイクが突然止まった。
そこは、周りに何もない駐車場で、休憩スペースらしかった。
「あれ?どうしたの?」
今日はもう七夕だ。
もうそろそろ目的地に着いてもいいころのはずだ。
「悪いけど、ここからは歩きなんだよ。もう少しで到着だから、頑張ろう。」
言いながら、自分はテキパキとバイクからいろんなものを降ろし始める。
「えぇ!?歩くの?」
「うん。といっても、そんなに遠くもないしね。……あれ、ひょっとして、足怪我とかしてる?」
「ううん、違う違う!」
なんとなく言ってしまっただけなのに、そう連想するあたり、流石というかなんというか。


まだ明るいうちに、「その場所」へつくことができた。
そこは、見渡す限りの森に挟まれた、とても大きな川のほとりだった。
「わぁ……。すごい。」
思わず、漏らす。
その川は広いだけでなく、どこまでも透き通った、とても綺麗な川だった。
自分が住んでいるあたりの川なんて、比較にもならない。
そんなはしゃぐ私をよそに、隆ちゃんは離れたところでテントを立てていた。
といっても、バイクに乗るほどなので、かなり小さい。
一定のリズムで響く金属音が、森に反響している。
こんなところで、星が見れるんだ。
そう思うと、心が躍ってしまう。

とりあえず、手持ち無沙汰な私は隆ちゃんにちょっかいを出しにいった。



「薫ちゃん。起きて起きて。見てごらん。」
隆ちゃんに体を揺すられる。
「ん……。ん〜。」
「もう星出てるよ。ほら。」
言われて、飛び起きた。

隆ちゃんが作ってくれた夕飯の後
「星が出るまで時間あるし、少し寝てくるといいよ。疲れてるでしょ?」
と言われて、私はテントで寝ていた。
本当は、ずっと隆ちゃんと話して居たかったけれど、疲れていたのも本当だったからおとなしく従った。
隆ちゃんに手を引かれるまま、テントから外に出る。
「わぁ……。」
待ちきれず、すぐに空を見上げた私の目に飛び込んできたのは、視界いっぱいの星だった。
家から見ていたものとは明らかに違う。
一つ一つが明るくて、盛んに自己主張をしている。
数だって、断然違う。
「あっ!あれが天の川?」
ひときわ星が密集している部分。
木のせいで、「川」と認識するほどは見えなかったけれど、それでもなんとなくわかる。
「そうだね。で、あれが織姫。……彦星は見えないなぁ。」
空を指差しながら、教えてもらう。
その一つ一つに、私は壊れたおもちゃみたいにうなずいていた。

「薫ちゃん。こっちに来てごらん。」
飽きずにずっと空を眺めていると、思ったより遠くから声が聞こえた。
その距離感が怖くて、私は駆けていった。
「走ると危ないよ。……見てごらん。」
と、隆ちゃんは指差す。
その先を目で追っていくと……。
「わっ……」
言葉が出なかった。
星空が、目の前にあった。
正確には、川に映った星空。
対岸には、広い範囲で川原が続いている。
そのおかげで、木に邪魔されずに、星が川に綺麗に映れているのだ。
ゆらゆらと、薄く揺れながら、星の川は輝く。
「ね、すごいでしょう。これが、ぼくの秘密の星空だよ。」
隆ちゃんの声にも、反応できない。
ただただ、馬鹿みたいに見入るだけだ。

川原に座って、見るともなしに、川を眺める。
そして、思い出したように空を見上げ、また思い出したように、川に視線を落とす。
どっちを見ても、角度が変わっても、相変わらず星の川は輝いている。
……今なら、どんな馬鹿なことでも訊ける。
なんとなく、そう思った。
思った瞬間には、口に出ていた。
「隆ちゃん。」
「どうしたの?」
「隆ちゃんは、私のこと、どう思ってる?」
「うーん。隣の家の、娘さん。」
普段なら、ため息か、苦笑いか、デコピンが飛んでいたと思う。
でも。
「ふざけないで、真剣に答えて。」
思ったより、声が強くなった。
「ふざけてないよ。ぼくは」
「私は!」
突然の大声に、隆ちゃんがびっくりしている。
そんな隆ちゃんの顔を、私はまっすぐに見つめる。
「私は、隆ちゃんのこと、隣の家の息子だなんて思ってない。」
まだわからないのか、隆ちゃんは変な顔のままだ。
ダメだ。遠回りに言っても、隆ちゃんはわからない。
「私、隆ちゃんのことが好きなの。ずっとずっと前から、好きだったの。」
ひとつ、息を吸う。
目を閉じたかった。顔を背けたかった。
でも、それじゃダメだ。私は、よりいっそう、隆ちゃんの顔を見つめる。
「私にとって、隆ちゃんは『お兄ちゃん』じゃない。隆ちゃんは、『男の人』なの!」
隆ちゃんの顔が、次々変化していく。
困惑から、納得、そして焦り、また困惑。
「これでもまだ、私は『隣の家の娘』?」
「えっと……。」
隆ちゃんは顔を少しだけ逸らすと
「ごめん……」
とつぶやいた。
「あ……」
「あっ、いや、そうじゃなくて!」
あわてたように言い直す。
「ごめん、そうじゃなくて……なんていうか、すごく急だったから……。」
言葉がわからない、と続けた。
「ごめん、急には、答えられない。……すこし、時間をちょうだい……。」
それっきり、黙ってしまった。


空気が、重い。
ずっと座ったまま、二人並んで川を眺め続けている。
空気が、重い。
原因は私とは言え、やっぱり、やりきれなかった。


と、ふと、何かが視界の中を横切った。
なんだろう、と思ってそこを見ていると、また何かが横切る。
……あ。
「流れ星。」
隆ちゃんも気づいていたようで、同じ方向に視線を動かしていた。
また、じっと同じ方向を見つめる。
と。
また、線が視界を横切る。
それは、最初の二つなんかよりもずっと長い軌跡を描くと、

ポチャン。

『えええええええええええええええええええええええええ!?』

思わず、叫んでしまった。
軌跡を追いかけた先で、水がはねた。
見間違い?とつぶやく私をバカにするように、川は波打っている。
「い、今の……。」
隆ちゃんも、思わずつぶやいている。

そんな、バカな。



結局、あれからも隆ちゃんからは返事は聞いていない。
隆ちゃんは極度の優柔不断だから、仕方ないとは思う。
だけれど、私はもう、飛行機の中なんだ。

……結局、返事を聞けなかった。

出発が平日なせいで、恵美とも会えていない。
昨日の夜にたくさん電話できたからいいけれど。
やっぱり、ちゃんと見送って欲しかった。
そして。
「隆ちゃん、来てなかった……。」
やっぱり、隆ちゃんにも、見送って欲しかった。
『あの答え』が、見つかっていようと、なかろうと。

向こうに着いたら、まず最初に手紙を書こうと思う。
ひとつは、恵美に。
やっぱり、真っ先に話をしたいから。
そして、もうひとつ。
……隆ちゃんに。
何が何でも、答えを聞き出すんだ。
多少強引でも、かまわない。

あの日見た、星の降った川。
あれはきっと、私の願いを聞き届けるために、星がやってきたんだ。
私には、星がついている。
織姫と彦星が、応援してくれている。
だから、返事を聞くまで。イエスと言わせるまで。
ひたすら、アタックを続けようと思う。

そう決めたら、なんだか力が沸いてきた。
私は早速、最初の手紙の内容を考え始めた。


End...


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