雪の憂鬱


「いや、ふざけていないことくらいは、わかる。君は、そんな子じゃないからね。」
 イスと、机。それ意外には、何もない。殺風景な狭い部屋。
 大体の生徒には蛇蝎の如く嫌われている、この部屋には、名前があった。
「でも、さ。わかるからって、納得できるわけじゃないんだよね……。」
 その名前はずばり、「生徒指導室」。
 木村雪の目の前では、若い男性教諭が頭を抱えていた。

「あっ、帰ってきた!」
 生徒指導室で進展の無い会話を終え教室に戻ると、突然に声をかけられる。
 放課後もかなり経ち、誰も居ないと思っていたので、雪は少々面食らった。
「小春。どうしたの?」
「ひっどーい!待ってたのに!」
 小春と呼ばれた少女は、ころころと笑いながら座っていた机から飛び降りる。
 背の低い篠崎小春(シノザキコハル)は、キッチリ揃えられた前髪を揺らし、顔を上げる。
 その表情には常に明るい笑顔があり、背の低さも相まってかなり幼く見える。
「ごめん、ごめん。待ってくれてるなんて思ってなくて。」
 雪もつられて笑いながら、謝る。
 特に気にしていないのか、小春は「あははは」と笑いながら、雪に走り寄る。
 その手には、雪の学生鞄があった。
「はい。」
「ありがとう。じゃ、帰ろうか。」

「先生、何だって?」
「進路志望のことだって。」
「まさか、アレ書いたの?」
 少し前を歩く小春が、振り向いて問いかける。
 と言っても、回答も半ば以上に予想していたようだ。
 その証拠に、小春の笑顔が少しだけ意地の悪いものに変化している。
「いまどき居ないもんねー。大真面目にあんなこと書く人。」
「いいじゃない、ちゃんと理由さえあればさー。」
「あはははっ」
 珍しくふてくされた顔で呟く雪を、小春は遠慮なく笑う。
「笑いすぎだって。そういう小春は何って書いたの?」
「私は普通だよ。舞台女優。」
 笑顔のまま、くるりと一回転。
 短い髪と、制服の裾、そしてプリーツスカートがふわりと浮き上がる。
 重みのある鞄だけが少しだけ正面を行き過ぎて、止まる。
 そして、「にへへ。」、と声に出して笑ってみせる。
 その無邪気な姿は、小春の容姿と相まって、とても愛らしい。
「小春は小春で、特殊だと思うけどね。」
「ぷーっ!そういうこと言うー!」
 お返しとばかりに、笑いながらふくらんだ頬をつつく雪。
 しかし、同時に思う。
「特殊でも、ちゃんとした夢で、ちゃんとした進路なんだよね。」
 それなら、先生だって困りはしない。
 少なくとも、放課後に進路指導室に呼ばれるほどには。
「もっちろん。もう劇団だって決めてるし、リーダーにだって話を通してあるんだよ。」
 えっへん、と胸を張る小春に、雪は目を丸くする。
「そこまで!?すごいなぁ、小春にはぜんぜんかなわないよ。」
「むー、雪にそういわれると、なんだかバカにされた気分になるよ?」
「ううん、小春のほうがすごいよ。ちゃんとした夢があって、そこに向けて進んでいるんだもの。」
 それに比べて、自分は。
「雪は『お嫁さん』だもんねー。彼氏も居ないのに。」
「う、いいじゃない。理由だってちゃんとあるんだから。っていうか、ちゃんと『主婦』って書いたよ!」
 先ほどと似たようなやり取りを繰り返して、またため息をつく。
「その理由だって、働きたくないから、って言ったんでしょ?ダメだって、雪を100%理解してなきゃ、誰も真意を理解できないと思うよ。」
「小春が男だったらよかったのに。」
「ダメダメ、私は『おねえちゃん』のものだから。」
 あははは、といつものように笑いながらかわされる。

 それは、いつものような毎日だった。
 小春と雪、二人並んで、なんでもないことを話しながら、笑いあって歩く。
 でも、その毎日にも、終わりはある。確実に、近づいている。
 二人は学生であり、学生には必ず制限時間が有り、
 つまるところ
 二人は三年生で、そろそろ風が冷たくなってきた。
 そういうわけだ。

「ただいま。」
 誰も居ない家に、声をかける。
 無駄に広い家。もちろん、誰からも声は帰ってこない。
 彼女には美崎という妹が居るが、高校に入ってからは、帰ってくるのが遅い。
 世話を焼かなくて済むのは楽だが、少しだけ寂しい。
 無意識についたため息が、大きく反響する。
 その音を自覚すると、どっと疲れが押し寄せてくる。
 ベッドに直行したい気持ちをぐっと抑えて、着替える。
 当然のように、制服はキッチリとハンガーにかける。
 やることがたくさんある。
 掃除も洗濯も、一日だって休むわけにはいかない。
 妹が帰ってくるまでに、家を綺麗にしなければいけない。
 そして、とびきりの笑顔で「おかえりなさい」と言ってあげる。それが、日課だ。

「ただいまー」
「おかえりなさい。」
 朝のうちに部屋干しをしておいた洗濯物を畳みながら、居間に入ってきた妹を出迎える。
「手は洗った?」
「もちろん。」
 妹の返事に笑顔で頷きながら、再び顔を洗濯物に向ける。
 姉妹の二人暮らしなので、そこまで数は多くない。
「お腹減ったー、ねぇ、今日はご飯何?」
「今日はオムライスね。あまり時間がなかったから。」
 手抜き、と言うつもりは無いが、普段より幾分も簡単になってしまった夕飯。それでも妹は喜んでくれる。
 まだほんの少しだけ残っている洗濯たたみはとりあえず中断する。
 ご飯を食べるときは、一緒に食卓につくべきだ。
 二人一緒に「いただきます」と声を合わせ、妹の話に相槌を打ちながら、食べていく。
 テレビはあるものの、食事中にはつけない。
 雪としては特に見たいものが無く、妹の方もおしゃべりに夢中だからだ。
 妹の方が先に食べ終え、食器を流しに置く。
 そのまま部屋に戻り、着替えを持って風呂場へ入っていく。
 その姿を横目で見つつ、雪も食べ終え、自分と妹の食器を洗う。
 風呂から出てきた妹がテレビの前に座り込み、自分は洗濯たたみを再開する。
 三つできた山のうち、一つを居間の戸棚へ。
 もう一つを妹の横に置き、最後の一つを持って自分の部屋へ。
 種類ごとに分けながら片付けて、寝巻きを取り出す。
 居間に戻り、戸棚からバスタオルを取り出し、風呂場へ。
 風呂から出ると、妹がテレビを消すところだった。
 明日の予定をお互いに伝え合った後、
「おやすみー」
「おやすみなさい。」
 と、挨拶を交わす。
 部屋に入っていく妹を見送ると、居間の片づけを開始。
 手早く終えた後、家中の戸締りや消灯、ガスを確認して、自分も部屋に戻る。
 あらかじめ済ませていた翌日の準備を再確認し、ベッドに入る。

「おあよー」
「おはよう。顔あらってらっしゃい。」
 眠そうな目をこする妹を笑顔で迎えながら、朝食に使ったフライパンを水に浸す。
「いただきます。」
「いただきます。」
 戻ってきた妹と一緒に、手を合わせる。
 今日の予定や忘れ物などを再確認しながら食べて、歯を磨く。
「いってきまーす。」
「いってらっしゃい。」
 友達と約束がある、と妹が早めに登校する。
 それを見送った後で、手早く食器を洗ってしまう。
 家中の戸締りや消灯、ガスを確認した後に部屋に戻り、着替え。
 準備していたものを一式抱え、家を出て、鍵をかける。
「いってきます。」
 もちろん、その声に応えるものは無い。

「それで、どうする気なの?彼氏が居なきゃお嫁さんにはなれないよ。」
 放課後。進路志望の用紙を前に、頭を抱える雪と、それをからかう小春の姿があった。
 他のクラスメイトは既に教室には居ない。
 優等生である雪が、そんなものを相手に悩んでいる姿にはほとんどの生徒が興味を示したが、「優等生ゆえの悩み」なのだろうと、勝手に納得した。
 蓋を開けてみれば、馬鹿馬鹿しいことこの上ない内容であるのに。
「進学でいいじゃない。働かなくていいし、彼氏を見つけることもできるし。」
 横で喋り続ける小春の言うことはもっともで、雪自身もそうするしかないとは考えていた。
「でも、実際なんで働きたくないの?両親のせい、っていうのは聞いたことあるけど。」
「んー、実際言葉にすると、わけがわからなくて恥ずかしいんだけど……。」
 小春の疑問に、雪は頭を掻きながら言葉を捜す。
「私はね、両親が嫌いなの。」

 雪の両親は、仕事に取り付かれた亡者だ。
 幼い姉妹を残し、ベビーシッターだけをつけてすぐに仕事に復帰をした。
 両親共に、それぞれの会社では頼られる人物らしく、日ごろから出張で世界を飛び回り、たまに帰ってきても電話一本で家から姿を消した。
 それでも、雪はまだ幸せだったのかも知れない。
 雪が五歳になるまでは、両親のうちどちらか片方は必ず家に居た。
 だから、雪は両親に愛された記憶が残っている。
 雪は幼いながらに、両親が大変であると悟り、良い子であろうとした。
 また、寂しがりな妹のために、良い姉であろうとした。
 それが、失敗だったのかもしれない。
 五歳になったある日のこと。
 その日は珍しく、両親が共にそろっていた。
「雪は、いいお姉ちゃんだね。」
 唐突に、父親に褒められた。
 何も知らなかった当時の雪は、その言葉を聞いて純粋に喜んだ。
 その翌日。
「それじゃあ、いってきます。良い子にしててね。」
 家に、見知らぬ人間がやってきて。
 両親は、心底嬉しそうな笑みを浮かべて、共に家から出ていった。
 まだ三歳だった妹は、泣きに泣いてベビーシッターを困らせた。
 それを必死になだめながら、雪はその日初めて、両親に怒りを覚えた。
 結局、妹がベビーシッターになつくことは無く、それが家政婦に変わっても同じだった。
 雪は、自分が高校に上がると同時に、両親に一方的に話をつけ、家政婦を解雇してもらった。
「地獄のような毎日だった。美崎は泣いてばかりだし、手伝いは何の役にも立たないし。」

 そこまで一息に喋って、ため息をつく。
「信じられる?美崎って、わかるよね?一年生に居るの。……未だに、両親の顔、わからないんだよ?」
 二人が成長するにつれ、両親が家に帰ってくる日がどんどんと少なくなっていった。
 妹が固い顔で「おかえり」と言っていたことに、あの二人は気付いていたのだろうか。
 生活費は、口座に勝手に入ってくる。
 それこそ、姉妹二人では、どれだけ頑張っても使い切れないくらいに。
 だからこそ、雪はそれを妹には内緒にし、贅沢をせずに生活していた。
 本当なら、使いたくもない。でも、生きていくためには、頼るしかない。
 自分勝手でわがままで、どうしようもないと自分でも思う。
「美崎は本当に、良い子に育ってくれた。伸び伸びと、健康に。あの子の将来は、きっと心配しなくてもいいと思う。」
 でも、私は、と区切る。
「きっと、私はあの二人の血を、濃く継いでる。だから、働きたくない。働けないの。……働けば、きっと、同じになる。」
 何もかもを捨てて、仕事のために生きるようになる。
 仕事に対して恐怖に似た感情を持つ自分では、アルバイトすらするわけにはいかない。
 実際に。
 クラスの行事や、学校の手伝いなどでは、よく頼られていた。
 それにのめりこみ、行き過ぎる事だって、何度もあった。
 それが本格的な「仕事」になったとき、どうなるかはきっと、火を見るより明らかだ。
「それが、理由。やっぱり、言葉にしちゃうと、何かバカみたいだよね。」
 気付かないうちに俯いていた顔を上げようとすると、小春に上から押さえられた。
「雪。頑張ってたんだね。たくさんたくさん、がんばったんだね。」
 やさしく、ゆっくりと声をかけ、同じリズムで、頭を撫でられる。
 雪が軽く頭を振って抵抗してみせるが、小春の手は止まらない。
 雪も、すぐに抵抗をやめ、されるがままになる。
「私、もう子供じゃないんだけど。」
 と言ってみるも、それは言葉だけだ。

 どれだけの時間、そうしていただろうか。
 あまり経っていない気はするし、まるで一晩眠っていたような気もする。
「ねえ、雪。私と、一緒の大学に行こう。」
 そっと、小春が切り出した。
「小春は、劇団員になるんじゃないの?」
「劇団と言っても、弱小だからね。ハコも埋まらないような。『おねえちゃん』が居なきゃ、きっと知ることも無かった。」
 優しく微笑むその横顔からは、「弱小」と言いつつも愛して止まない気持ちが溢れている。
「だから、勉強しておけば、何かの役に立つかもしれない。元々、仕事しながらだとか、アルバイトしながらって人が大半だから、時間は大丈夫なんだ。」
 何それ聞いてない、と呟くと、
「言ってないもん。」
 いたずらっぽく、笑われた。
「何って書いた?って訊くから、第一志望だけ、答えたんだよ。」
 小さく舌を出す小春に呆れながら、雪は再び進路志望の用紙に目を落とす。
「小春の志望校って、地元?」
 さすがに、まだ妹を一人にすることはできない。
「もっちろん。拠点が地元だもん、離れられるわけないよ。」
 だったら、迷うことは無いだろう。
 早速、小春からパンフレットを受け取る。

「なるほど。君のレベルからすれば、ずいぶん低いような気もするけど……」
 アレに比べれば、という言葉を飲み込んだような気配が伝わってきた。
 担任に進路志望の用紙を手渡しに行き、そのまま隣の生徒指導室に移った。
 そして、志望大学の名前を見た上での第一声が、それだ。
「家庭の事情で、まだ家からは離れられませんから。」
「いいんじゃないかな。君なら、どこでだってしっかり学べるだろう。」
 大きく頷くと、用紙をファイルに収める。
「パンフレットはもうあるかい?何か必要なものや、訊きたいことがあったら遠慮なく声をかけてね。」
 ようやく自分の手に負える、と感じたのか、心なしか担任の声が軽かった。
 だから、部屋を出る直前でなんとなく。
「言っておきますけど、第一志望は、変わってないんですよ?」
 担任の顔が、一瞬だけ引きつったのを確認した。

「おかえりー。」
 いつかのように。あるいは、いつものように。
 小春は、座っていた机から飛び降りると、雪に学生鞄を手渡してくる。
「じゃ、帰ろっか。」
 そしてまた、いつものように。
 二人並んで、道を歩む。

 私達の「いつもの」は、もうすぐ終わってしまう。
 でも、私達には「これから」ができたから。
 少しだけ伸びた制限時間を、もっともっと、笑顔で埋められたらいいな、と思う。

 そうだ。そろそろ、冬物の仕度をしよう。



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